過ぎゆく時の中で
肌を這う楽俊の手が心臓をわし掴みにしている感覚に、何度も襲われた。
決してこの経験は少なくなかった。けれど、どうしても慣れることはできない。ただ痛みを堪えることとは違う。痛みだけなら、きっとこんなに苦しくはない。
苦痛に耐えて唇を噛み締め、ただひたすらに時が過ぎるのを待つだけの行為なら、きっと、割り切れる。このいたたまれない気持ちを、自分の中から、切ってしまえる。
しかし、彼との行為は、そうやって内の自分をどこかに追いやり、逃がすことができない。ただ、隠すことのできない己をつきつけられる。
自分と異なるその相貌、優しさだけではない素顔のもとで、ただただ、曝される。
――好きなのだと。苦しくも狂おしいほどに、好きなのだと。
これは痛みじゃない。痛いだけなら、きっとこんな気持ちにはならない。
腰を掴む手に力が加わり、荒れた息遣いが首筋にかかっては、部屋を占める濃密な空気に溶けた。
陽子は目を閉じたまま、その手の平を褥に滑らせる。何かに縋っていないと、恐ろしいことを口に出してしまいそうで、怖かった。彼と顔を合わせたくないと思ってしまうのはそのためだ。
腰を支えていた楽俊の手がそっと陽子の胸に触れ、ゆっくりとした動きで腹に下り、さらに内腿を撫でた。隠しきれない声が漏れるが、顔を埋めていた靠枕に、その苦しげな声が吸い込まれる。
「陽子」
半身を起こして陽子の頬に口付けながら、楽俊はその名を呼んだ。促されるような声に、陽子はそっと瞼を開ける。
普段は優しさを湛えた楽俊の双眸は熱に浮かされ、その奥に揺らめく欲望に、陽子は僅かな怯えを抱く。
唇を噛み締め、言葉も呼吸も、その僅かな喘ぎも決して漏らすまいとする陽子に気付いた楽俊は、笑みを浮かべると、陽子の唇を親指でなぞった。
「その癖は直すように言ったはずなんだがな」
そう言って楽俊は、陽子が閉じ込める全てを開放するように深い口付けを落とした。
――言葉は怖い。
たったその一言で、どれだけそれが自分と楽俊を縛るかわからない。
けれど、逃しきれない快楽はもはや限界に近く、まともに呼吸をすることもできない陽子は、自らの唇から零れ落ちていく嬌声や吐息を知りながらも、強い快楽の波に流されてしまうことを拒んだ。
こんなにいたたまれなくなる理由は、とうの昔に知れていた。
楽俊と初めて夜を共にしたときから、それまで知らなかった自身の感情に気付いていた。そして、溢れて自分の内から広がるその感情の正体にも。
――ただただ、好きで仕方ない。楽俊のことを、苦しくも狂おしいほどに好きなのだと。
崩落が近付く。楽俊の激しさに、我を忘れて夢中で喘ぐ。
怖かった。
何より、自分がこんなにも彼を愛しく思っていることを、認めてしまうのが怖かった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
牀の縁に姿勢良く座した背中に額を凭れかけ、陽子は楽俊の被衫を握りしめた。
その背には、愚かな自分のせいでついた大きな傷跡があることを陽子は知っている。布越しに微かに感じるそれに胸が苦しくなり、陽子はことさら強く額を押しつけた。
その傷に触れるのが恐ろしく、陽子が楽俊の背に手を回すことは決してなかった。同じく楽俊も、陽子の右手に意思をもって触れることはなかった――つい数日前までは。
破られることのなかった、暗黙の了解が壊されてしまったのだった。
昨夜、生まれる熱に浮かされながら、その縋ろうとする手のやり場に僅かに迷った。けれど、その手を楽俊に伸ばすことができず、結局いつものように褥に滑らせた。
今、布越しに触れることですら、自分を奮い立たせて追い込まねばならなかった。
背中に額を寄せる体勢では、陽子からも楽俊からも互いの顔は見えない。しかし、陽子はわざとそうした。
きっと情けない顔をしているだろう自分を見せたくなかった。楽俊は、それでも絶対に自分から目を逸らさないだろう。けれども、その真っ直ぐな目を今だけは見たくない。
――何と色気のない朝なのだろう。頭のどこかで、年頃の自分が自嘲する。
楽俊は意思をもって、陽子の右手に触れてくれたというのに、陽子は何も言わずにその背中に縋るように凭れることしかできない。
楽俊は体の自由を奪われたまま、「陽子?」と背後に問いかけた。
額をぐっと押しつけたまま微動だにしない陽子の腕を掴み、体を反転させると、楽俊は腕の中に陽子を抱き込み、その背を優しく撫ぜた。
そしてもう一度、「陽子」と優しく呼びかける。
「――楽俊」
咽喉の奥から搾り出すように、陽子は応じる。楽俊が「うん」と答えると、被衫を握りしめる手に力が入った。
「楽俊」
「うん」
「楽俊」
「うん」
陽子は楽俊に対する言葉を探していた。
感謝。謝罪。願望。恐れ。
一番伝えたいのは感謝のそれだが、何と言えばいいのかわからない。
何を、何度言っても足りないように思えるのだ。自分の内にある、複雑に入り混じり深すぎる感情をどうやって表現したらいいのか陽子はわからなかった。どんなに言葉を連ね、重ねたとしても、到底足りない。逆に薄いとさえ思えてしまう。
こんな気持ちにさせられる存在が、これほど近くに居ることがどれほどの幸運か。その幸せを痛いくらい自覚しながら、同時にそれを上手く伝えられない自分に歯痒い思いをしていた。
伝えたくて、でも結局言葉を見つけられないままに、陽子は「楽俊」と何度も名前を呼んだ。
楽俊は、名前を呼び続ける陽子に、真摯に「うん」と返事をし続ける。
「楽俊」
「うん」
幾度目の応答か、陽子がそれきり黙ってしまうと、楽俊は静かに口を開いた。
「陽子。大丈夫だ」
ああ、なんてずるい、優しい男だろう。
こう言われてしまっては、陽子がすることは一つしかなかった。陽子は不覚にも溢れそうになった涙を楽俊の着物に擦りつける。
楽俊の背中にゆっくりと手を回した陽子の頭を柔らかく撫でながら、楽俊は「大丈夫だ」と繰り返した。