薬指の標本



 波間に揺れる、人が灯す明かりに、陽子はふと息を吐いた。
 目に見えて増えていくそれに、自分の存在意義が果たされていることを知る。遠く離れた場所からでも、見えるものはあるのだと安心できる。
 月に照らされた赤い髪は仄かに光を反射し、風に揺れるその様は灯火のようでもあった。

 波打ち際で下界を一回り眺めると、少し離れた場所に作らせた石の椅子に座り、同じ石で作られた石案に左肘をついた。
 瞳を閉じ、すうと空気を含むように吸い込み吐き出すと、思案していた通りの潮の香りが微かに鼻腔をくすぐった。
 深い呼吸を終えると、陽子は碧の目を開ける。
 向けた視線の先は波間の遥か遠く。しかし、目前を囲う闇は思いの外深く、空と海との境界は曖昧だった。異なるのは、その下半分が大蛇のように黒くうねっていることである。

 ――こんなふうに海を見るのは初めてかもしれない。

 そんなことを思った。
 あちらでは、海の下に人が暮らすことなどありえなかった。よって、夜の海原がこのような様を呈するなど、想像したことがなかった。
 懐かしい記憶を辿りながら、そっと手の平に視線を落とす。
 ――今、自分が手に掴んでいるものは、どれほどのものがあるのだろうか。
 彼に出会うまで、その内にあるものは闇と傷と、己の愚かさしかなかった。しかし、今は光がある。
 信頼し合う友や同志という臣下。未来への夢、それに向かう軌跡、多くのものを手にすることができた。
 けれど、同じだけのものを失ってきた。きっと、陽子の知らぬ間に落としてしまったものも多いのだろう。どんなに手の平を強く固めても、隙間はなくならない。砂のようにこぼれ落ち続ける。陽子が掬おうとする限り、それは止まない。どうやっても、悔いが残る。足掻けば足掻くほど、後悔がついて回る。
 それは、飲めば飲むほどに渇く海の水。
 落とした、失ってしまったと思うものが、真実手中にあったのかさえわからない。

 ――自分はもう、壊れ始めているのだろうか。

 王となって、まだ幾許も経っていないというのに。
 彼の人が聞いたらどう思うだろう。考えながら、自嘲気味に一人笑う。こんなふうに自傷的思考に陥るのは、降るように瞬きを見せる星のせいだと思いたい。
 それまでの考えを消化するために、陽子はしばし、波の描く様を見つめた。
 夜の雲海は天上の星と、地上の人の灯火とを映し、それらが見慣れた闇色に揺れている。夏の名残のような熱が潮風に混じって頬を掠め、また海原に溶けてはうねりを作った。
 似てはいた。しかし同一ではなく、元来の闇とは異質のものだ。
 陽子はそう感じた。
 ここにあるのは、果てなく、浮き上がることのない闇の底へ引き摺り込むような、貶めるだけの黒ではない。
 もしかしたら、それよりも性質の悪い闇なのかもしれない。
 あらゆるものを受け入れた水が、熱を孕んだ風と交じり合い、黒くうねりながら心身に絡みつく。
 それは欲情の匂い。
 人の体温のような生温さに手足を取られたら最後、神経が白く砕けるまで、きっと抜け出せない。水面に囚われた月光が欲を増長させ、狂ったように快楽の饗宴へと誘い込む。
 陽子は、そんな錯覚にひそりと笑う。

 ――馬鹿なことを。

 この場所から駆けだしてうねりに呑まれるのも、彼の胸に飛び込んで快楽に揺蕩うのも、魅力的ではあるが、溺れ果てるばかりで希望がない。
 肌を合わせる行為や、それによって得る悦楽が嫌いという訳ではない。官能の波に溶けるのは心地いい。勿論それは、想う相手から与えられる悦びだからこそ。与え与えられ、溶けて流され、形作られる。己が、恋しい男がそこに存在し、許される。言葉では表現しにくい尊い何かを得ることができる。
 時折、できるならば死に絶えるまでこの体を貪って欲しいなどという、仄暗い愉悦をも伴うことがある。
 しかし陽子が切望しているのは、やはり生きて見る現実なのだ。

「生きなければ」

 言葉を押し出して、その胸元に手を置いた。
 堕落すれば、天意という牙が己を貫くこの体。止まぬ不安に神経を焦がしながら、それでも、肺は必死に呼吸を繰り返し、鼓動は止まず心臓は一定のリズムを打ち続けている。一時の誘惑にかられて自滅するわけにはいかない。
 黒の誘惑を断つように、陽子はそっと目を閉じる。
 この情景をいつまでも見つめていては、引き込まれて戻れなってしましそうだ。ならば、そろそろ部屋に戻ろうかと思案した矢先。
「陽子」
 不意に背後より声が響いた。聞き慣れた、誰とも紛わないその声。
「楽俊」
 振り向けば思う通り、見慣れた恋人の姿があった。しかし、その表情には僅かに苦い色が見て取れる。
 どうしたのかと、陽子は小首を傾げてみせた。
「月見もいいけど、湯上がりに長居はするなよ。体が冷えちまう」
 それに被衫だけだなんてはしたないぞ、と親のような物言いを付け加え、楽俊は手にした上着を軽く陽子の肩にかける。
 布に留まった楽俊の体温を微かに感じ、己の体が思いのほか冷えていることに気付かされた。
「それにしても、見事な月だ」
 冷えた体には気付かず、横に並び立つ楽俊が言う。
「そうだね」
 返事を返しながら、陽子は隣の相手を垣間見た。
 月の光がその輪郭を辿り、まるで知らない男のようにも見え、思わずぼうっとしてしまう。
「ねえ、楽俊」
 陽子の呼びかけに、楽俊は首を傾げることで応じる。
「私達が今見ている月は、本当はこんなに大きくないんだ。月は遠く、遥か遠くにあるからもっと小さい。けれど、眼の錯覚でこんなにも大きく見える。私たちは幻、偽りの月を見ているんだよ」
 楽俊は月を見上げ、そして視線を陽子へと戻す。
「こんなにでっかく見えるのにか?」
「大きいように認識しているだけで、見えているものではないんだよ」
 陽子の言ったことが理解できたのか否かがわからない態度で、楽俊はそうか、とだけ口にした。そして、再び月を見上げる。
 二人は互いに何も口にすることなく、静かな時がしばらく流れる。やがて、しびれを切らした陽子が口を開くのを待ちかまえていたかのように、楽俊が先をついて口を開いた。
「それでも、こうして月を共に見ていたことは事実だろう?」
「――うん」
 見つめてくる陽子の髪を優しく撫でると、楽俊は陽子の正面にしゃがみ込み視線を合わせた。
「陽子は見ている月が偽りだと言うが、おいらと陽子が同じように見えているとも限らない」
「――そうだね……」
 楽俊の言葉は正しく、月に限らず、本当に二人が同じように見えていることを確かめる術はない。
「だけど、こうしておいらが陽子に触れていることは本当だろう?」
 そう言うと、楽俊の右手に陽子の左手が包まれる。温かい体温だった。
「陽子は、証がなくて不安なんだな」
 はっと、陽子は下げかけた視線を上げる。楽俊は、微笑んで陽子を見つめていた。
「証なんてものを得られるはずがないことを知っているから、確固たる地盤がないようで不安なんだろう?」
 楽俊の笑みに、胸のつかえがすとんと下りるような感覚があり、陽子はそうかと胸の中で頷いた。
 自分は不安だったのだ。自分の行いが、正しいのだという――少なくとも間違いではないという、証が得られぬことに。

「――陽子」

「ならばせめて、今宵この時が幻ではない証を残そうか」
 言って、楽俊は陽子の左薬指に唇を寄せ、柔らかく歯で食み優しく吸い上げた。陽子は楽俊の行動に、上手く対応できず呆然としている。
 唇が離れると薬指の根元の肌が、赤く染まっていることがわかった。
「きっとこの跡は明日まで残る」
 そうしたら、と楽俊は微笑む。
「今この時に、おいらと過ごしたことの証になるだろう?」
 陽子の胸は何故か苦しく、何も言えなくなってしまった。


 小さな家の二人の部屋に戻ると、楽俊は陽子を引き摺りこむようにして衾褥に潜り込んだ。
 陽子がかける言葉を模索している間に、楽俊は穏やかな寝息を立ててしまった。雁から慶への旅は、最速を誇る騶虞に乗っていたものであっても快適ではない。まして、楽俊は忙しい中、時間を工面して出てきてくれている。疲れないはずがなかった。
 楽俊の腕に囲まれ、額を寄せる胸から伝わる体温に陽子は深く息を吐いた。同時に、体から力がすっと抜ける。こうして楽俊の腕の中にいるときだけ、陽子は力を抜いて無防備でいられる。何かを恐れることも、警戒する必要もない。王でいる必要がないこのときだけは、陽子がただの娘でいられる時間だった。
 楽俊の高くはない体温に誘われるように瞼が次第に重くなっていく。きっと夢を見ることもなく眠れるのだろう。そんな予感と共に、陽子は瞼を閉じた。

◆ ◆ ◆ ◆


 深い場所から引き上げられるような感覚と共に、陽子は朝の到来を知った。いつものように体を起こそうとしたが、楽俊の腕は陽子を抱き寄せたままであった。
 そっと目だけを動かして楽俊の顔を窺うと、その瞼は閉じられている。止まぬ規則正しい呼吸は寝息。
 よほど疲れていたのだろう。楽俊が寝顔を曝すことは珍しいことだ。思い返せば、噛み殺してはいたが、夕食後やたらに欠伸をしていた気がする。
 ――ああ。そういえば、昨夜は夢を見ることなく眠れたのだった。
 久し振りに芯から眠れたように思われた。きっと、楽俊がいてくれたおかげだ。
 昨夜のことに思いを馳せ、家へ戻る直前のことを思い出し、陽子は楽俊を起こさぬよう、そろそろと左手の薬指を見た。
 楽俊のつけた証――赤い跡は、僅かではあったが残されていた。
 昨夜の出来事が幻などではなく、現実であった証。
 日の光に翳し、どうして左の薬指であったのかと、ふと、陽子は思う。別に他の指でかまわなかったはずだ。それこそ、親指と間隔が開いている人差し指の方が跡をつけやすいはず。ならば、左薬指でなければならない理由があったのだろうか――そこまで考え、陽子ははっとした。
 まさか、と思う。けれど、楽俊であれば、そうなのだろう。
 じわりと目が熱くなり、陽子は目を閉じて左手を抱きこんだ。
 楽俊はいつかの話を覚えていてくれたのだろう。左薬指が恋人を持つ女性にとって特別である話を。お茶の時間にあちらの風習として話した、些細な出来事を。
 留めてしまいたい、と陽子は思う。
 今この時を止め、自分だけが知る場所にしまっておけたなら、と。さすれば、今この時は陽子だけの永遠となるだろう。
 子どものように自分だけの宝箱にしまっておけば、望むときにそれを見ることができる。
 この、幸福な時間を。その証を。やがて失われる、このひとときを。
 いつか来るであろうそのときに、胸に抱いて逝けたのなら――。
「陽子?」
 奥へ沈んでいた思考が眠たげな声に引き戻される。
「先に起きてたみたいだな」
 自身の覚醒を促すように目を擦り、楽俊はおはようと口にした。
「……おはよう」
 楽俊は陽子を囲う腕を解くと陽子の左手を握り、左手をその眼前へと運ぶ。
「残ってたな、跡」
「……うん」
 視線を合わせようとしない陽子に、楽俊は額にかかる髪を手で除け、口付けを一つ落とした。
「お前が覚えている限り、それはお前のもので、きっと永遠だ」
 心内を覗いたかのような物言いに、陽子はそろりと視線を上げる。楽俊はいつもと変わらぬ笑みで陽子を見つめていた。
「それを繰り返していくうちに、永遠がお前の中を満たしていくんだろうなあ」
 何も言うことができず、陽子が黙っていると、楽俊は再び陽子を腕の中に囲った。
「悪いが、もう少しだけ寝かせてくれ……」
 そうして、あっという間に、すうすうと規則正しい寝息を立てながら楽俊は眠ってしまった。
 陽子一人を置いて眠ってしまった楽俊に寄り添うように、再び額をその胸に預け、陽子は追いかけるように目を閉じた。


 きっとこれからも、陽子が望む証は得られない。不安定な足元のまま、進んでいかねばならない。けれど、と思う。今日のように、永遠を手にすることもある。
 そしてそれは、己という宝箱の中にしまい込まれる。誰にも暴かれない、誰も知ることのない自分だけの永遠。
 今この時を止めてしまわずとも、陽子が永遠だと感じ、思えば、陽子の願いは叶い続ける。
 教えてくれたのは、目の前の男。

 ――幸せだ。





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