心の合鍵
学寮の階段を上がりきり、角を曲がったところで、楽俊は足を止めた。
しかし、それは本当に瞬きするほどの間で、すぐに早足で自室の前へと急いだ。
足音を聞いて、部屋の主が帰ってきたことに気付いたらしく、扉の前で膝に顔を埋めるようにして座っていた陽子は顔を上げて微笑んだ。
「楽俊」
ぱっと上げた顔は嬉しそうに明るいが、額に膝頭の跡がついている。
随分と長い間、部屋の前で蹲っていたのではないだろうか。浮かんだ考えに、楽俊の胸がちくりと痛んだ。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
立ち上がろうとする陽子の肘を捕まえて引っ張り起こし、額に手を伸ばすと、跡がついていることに気付いたらしい陽子が恥ずかしそうに身を捩って逃げた。
「どれくらいここにいたんだ? 随分と赤くなってる」
「そんなに長くは待ってないよ! ただ、ちょっと考え事してたから――」
右手で赤い跡を隠して頬を染める陽子を見ながら、楽俊は鍵を取り出した。
――やっぱり、合い鍵を渡しておいた方がいいよな。
以前にも一度作ってやると言ったことがあるのだが、陽子の方がひどくびっくりした顔をして、遠慮した。
しかし、何度もこういうことが続くと、やはり与えた方がいいに決まっている、と楽俊は思う。
陽子は外で待つことは苦ではないと言うが、待たせること自体が、楽俊にとって苦痛だった。部屋の中ならば不快な視線を向けられることもない。茶もあるし、退屈をしのぐ書籍や巻物もある。休んでいたってかまわない。
陽子を先に部屋へ入らせると椅子に座らせ、楽俊は書卓の引き出しから鈍く銀色に光るそれを取り出した。
「なぁ、陽子」
他に変なところはないかと顔を摩る陽子に呼びかける。
以前、渡そうと考えたときに、もう鍵は作ってあった。
「これ持ってろ」
差し出された鍵に、案の定、陽子は目を丸くし、それからひどく戸惑った顔を上げて楽俊を見た。次に何を言い出すかは見当がつく。だから楽俊は陽子が口を開く前に、人差し指で唇を封じた。
「おいらが、嫌だ」
眉を寄せた陽子に更に告げる。
「陽子を待たせるのが、だ。周りのことを気にしてるんじゃないからな」
何か言いたげな陽子の頭を、やはり言葉を遮るようにしてぐしゃぐしゃに撫でる。
以前、男装する陽子を少年だと勘違いした学生が、あらぬ噂を撒き散らしたことがあった。その後始末に随分と梃子摺らされたことは記憶にまだ新しい。
それを知った陽子は、少女が男装しているのだとわかる程度の服装に変えた。変えたとはいえほんの僅かであったが、それでも少女であることは誰の目にも明らかになった。
普段は単純素直を絵に描いた子供のような少女なのに、そうしたところだけは先回り気味にひどく気を遣うのは、どうしてなのだろう。
しかし、そうなると別の問題が生じてきた。周囲にあまり歓迎されていない自分が少女を部屋の前で待たせていることが理由で、陽子に不快な思いをさせてしまうかもしれないし、使令がついており、いくら剣の腕があるからといって、何事もないとは言い切れない。いつか、鍵さえ渡していたらと後悔する日が来ないとも限らないのだ。それを、楽俊はひどく恐れていた。
周囲を全く気にしないのも困りものだが、陽子の場合は、もう少し楽俊に迷惑をかけてもいいと思う。いや、我慢をさせている自分の方こそ情けない。
乱した前髪の隙間から見上げてくる碧眼に返す、楽俊の笑みは少々苦い。
「なぁ。どうせなら、部屋の中から出迎えてくれよ」
楽俊の言葉に感じるものがあったのか、幾度か瞬きを繰り返した陽子は、ぎこちなく手を伸ばし、差し出された手からおずおずと鍵を受け取った。
「いい子だ」
鍵が陽子の手に渡ったことに楽俊は安堵し、その体を抱き寄せた。
拒否されたらどうしようかと、心の底で少しは不安があったのだ。
腕の中の陽子は何を考えているのか、楽俊から受け取った鍵をじっと見詰めている。
鍵につける飾りを贈ろうと、不意に楽俊は思った。
――以前の組み紐のように、自分で選んだものを陽子に。
楽俊と繋がれていることがわかるように。
そして、陽子にはいつでも扉が開かれていることを教えるために。