記憶の棘



 ふるさとは遠きにありて思ふもの
 そして悲しくうたふもの
 よしや
 うらぶれて 異土の乞食となるとても
 帰るところにあるまじや
 ひとり都のゆふぐれに
 ふるさとおもひ涙ぐむ
 そのこころもて
 遠きみやこにかへらばや
 遠きみやこにかへらばや





 日課と化してしまった園林の散策中、ひらひらと風に乗り彷徨う花弁を見つけ、思わず陽子は立ち止まる。

 思い出すのは、大地と空を埋め尽くさんばかりの薄紅。風に遊ぶ花弁。
 物事の節目の季節に咲く雄大でありながら儚い花の名を、桜といった。


 ひらひらと、舞い散る薄紅色の花弁に誘われるように、園林の奥へと歩みを進める。
 やがて開けた視界の先に、それは咲いていた。
 薄紅色の花弁を咲かせる木に僅かな違和感を感じたまま、そろそろと歩み寄る。
 
 そして、歩み寄りながら陽子はその違和感の原因を知った。

 あちらでは見上げなければいけなかったというのに、視線を僅かに上げるほどの大きさでしかない。
 圧倒されるほどの枝ぶりであったというのに、上向きの枝しか残されていない。下向きの枝は剪定し、全て落されてしまったようだ。こころもち花の数も少ないようにも見える。


 同じ花でありながら異なる木の姿に、自らの体が強張ってしまったのを陽子は感じていた。


◆  ◆  ◆  ◆



「陽子?」
 突然かけられた声にびくりと肩を震わせ、ゆっくりと陽子が振り返ると、その双眸に首を傾げる楽俊が映った。
「……楽、俊?」
「陽子は園林にいるって聞いて、待っていたんだが、なかなか帰ってこねぇから」
 探しに来たのだと言う楽俊は、どこか気遣わしげな表情で陽子のもとへと歩み寄る。
 伸ばされた手は陽子の髪についていたのだろう花弁を摘み取り、そのまま陽子の頭を撫でる。
「どうかしたのか?」
 かけられた優しい声に、強張った自分の心や表情が緩むのを感じながら、陽子は舞い散る花弁を振り払うように首を横に振った。
 陽子の横に並び立つ楽俊は、自らの視線とあまり変わらぬ桜を見つめ、
「桜を見ていたみたいだな」
 と、言う。
 楽俊の言葉に応じるように陽子は再び桜を見つめ、ぽつりと呟いた。

「桜は好きじゃない。どんなに願っても届かぬ故郷の桜と似て、けれど違うもので――」

 そう言って無意識に、すぐ触れる距離にあった楽俊の手を握る。

「何だか切なくなる。桜は、蓬莱の象徴みたいなものだから」
 
 陽子は、繋いでいる自身の手に力がこもっていることにおそらく気付いていないのだろう。
 玉座についてからも剣の鍛錬を欠かさない陽子の握力は、楽俊の骨を軋ませる。
 けれど、楽俊は何も言わない。
 桜を見つめる表情が、まるで敵を見つめるかのように鋭いものだからだ。睨みつけてるような陽子の視線に、楽俊は僅かに目を伏せた。

 ある意味、陽子にとって「こちらの桜」は偽者なのだろう。
 姿形は似ているのに、陽子の知る「本物の桜」ではないのだから。
 陽子にとっては、紛い物の桜に過ぎないのかもしれない。

 そう思うと、楽俊の胸が微かに痛んだ。
 紛い物だと思われるのは悲しい。
 「こちらの桜」を今までずっと見て生きてきた楽俊にとって、桜を厭わしいと思われるのは、少し辛い。

「おいらも……蓬莱の桜を見てみたいな」

 けれど、陽子の生まれ育った蓬莱の桜を忘れろとは言えない。言いたくもないし、言えるはずもない。
 自分ですら郷愁の念に駆られるときがあるというのに、陽子ならば、なおさらだろう。

「私も、楽俊に蓬莱の桜を見せたいな」

 それがお互い夢物語だということは知っている。
 楽俊は虚海を渡る術も資格も持たぬ、ただの学生だ。そして、陽子は蝕によって引き起こされるものを知っているがゆえに、蓬莱へ戻ろうともしないだろう。

 楽俊は目を閉じて、思い浮かべる。

 視界を埋め尽くさんばかりの桜の花。
 風が吹けば雪のように舞い散る薄紅の花弁。
 その中で微笑む陽子は、きっと何よりも美しく――夢物語に過ぎないとわかっているけれど、きっと、自分の知る陽子の中で最も美しい。  
 きっと、何物にも変えがたいほど美しいだろう。

 自分の知らぬ世界で、陽子が最も美しい笑みを浮かべるだろうことは、正直言えば少し悲しい。
 こちらの世界にいる限り、それを自分が見ることは叶わないだろうから、それが寂しい。
 伝えてしまえば、きっと、陽子は悲しそうな微笑を浮かべることだろう。
 そして、それは楽俊の望むところのものではない。

 笑っていてほしい。
 幸福であってほしい。
 光の中を歩いていってほしい。

 願い望むことは多く、けれど、叶うことや、自らの力で叶えられることが少ないことを楽俊は知っている。
 それを歯がゆく苦しく感じることもあるけれど、今の自分にできることを為しておきたいと強く思う。

「蓬莱での桜は、どういうものなんだ?」
「……あちらの桜はとても大きくて、枝も多くて、枝いっぱいに花が咲いてる。そして、桜が咲く季節になるとお弁当とかを持って行くんだ。花見と称してね」
「そうか」
「うん」
 陽子の手をきゅっと握り締め、楽俊は続ける。
「こちらの桜は、花を観賞するよりも林檎や蜜柑のように実を得るための木だな」
「そうなのか?」
 桜から視線を外した陽子は目を見開き、続きを楽俊に促す。
「あぁ。だから……世界が異なるから詳しいことはわからないけれど、陽子の知る桜とは別の品種だと思う。あちらの桜はどうだった?」
 楽俊の問いかけに、陽子は首を傾げた。
「確か花見をしていた桜には、季節が過ぎても実はならなかったように思う。あ、でも桜桃はむこうにもあったよ」
「じゃぁ、やっぱり品種が違うんだろうな。観賞用と食用で」
 視線を桜へ向け、花弁の散る様をただただ見つめる陽子の横顔は、楽俊の言葉に感じ入るものでもあったのか、何かを思案しているようにも見えた。
 できれば、と楽俊は思う。
 こちらの桜を紛い物だなどと思ってくれるなと、蓬莱とこちらの桜は違うものなのだということを認識してほしい、と。
 自分で提示できることはできたと思う。そして、提示されたものから考え出されるものは陽子のものだ。
 少しずつでかまわないから、蓬莱とこちらの違いに慣れ、全く異なるものとして認識してほしい。
 こちらの世界を、蓬莱を想うように想ってほしいというのは、楽俊の我が侭で、陽子へ押し付けていいものではない。
 だからせめて、違うものなのだと、こちら固有の物なのだと知ってもらえる切欠を作りたいと、楽俊の中で今までぼんやりと感じていたものが、今回の桜のことで明確になった。
 そしていつか、こちらのことを自分の故郷だと、帰る場所なのだと想ってくれるならば、それに勝る喜びはないだろう。


 日が僅かに陰り、木々の影が伸びて二人を日の当たらぬ場所へと誘い始めたことに気付いた楽俊は、そっと繋いでいた手を解いた。
「そろそろ、帰ろう。まだ風は冷たいからな」
「うん……そうだね、祥瓊が待ちくたびれているかもしれないから、戻ろうか」
 そう言って、踵を返す陽子に楽俊は続く。
 陽子の戻ろうという言葉に、胸がつきりと痛んだが、まだ始まったばかりだと陽子に見えぬよう楽俊は苦笑した。


 陽子は楽俊の言葉に込められたものを、何となくではあったが察していた。
 こちらを故郷とする楽俊にとって、こちらのことを想ってほしいという気持ちを理解できなくもなかった。
 頭ではわかっているのに、それでも心がそれを受け付けない。
 きっと、陽子が慶国を愛しく想う日がいつかやって来るだろう。
 それでもきっと、慶国を、蓬莱を想うように想うことはないだろうと、そして同様に、蓬莱を、慶国を想うように想うことはないだろうと陽子は思う。
 そして、もし、生まれ育った場所ではなく、自らの帰りたいところが故郷だというならば、蓬莱もこちらも陽子の故郷たりえない。
 目を閉じて、自らの帰るべきところではなく、帰りたいと強く想うのはたった一つだ。
 
 
 
 
 ふるさとは遠くにあって思うもの
 そして悲しく歌うもの
 例え
 落ちぶれて 異土の乞食になったとしても
 帰るところでは無いだろうなあ
 ひとり都の夕暮れに
 ふるさと思い涙ぐむ
 その心をもって
 遠いみやこに帰りたい
 遠いみやこに帰りたい
 




 もし、自らの我が侭を口にできるというならば。


 ――帰りたい場所だと思えるのは、貴方の側だと言ったならば、

 ――自分のもとへ帰って来てほしいのだと、貴女に言ったならば、



 あなたは、何と答えるだろう?





桜・・・精神美、優れた美人