沈黙の世界
満たされることを知らない、虚ろな心を。
楽俊の後姿を見つけ、ぱっと頬を綻ばせた陽子は声をかけようと息を吸い込んで、そのまま息を止めた。
赤い紅い夕焼けの中で、自分よりも随分大きな背中は、何物とも隔絶された空間の中で陽子をも拒絶していた。
所在なげに伸ばした手を、ふらりと落とす。
丸い太陽が、歪む。
「……陽子?」
楽俊は、ふと、気配を感じて後ろを振り返れば、所在なげに佇む陽子の姿があった。
静かに近付いて、陽子の頭をくしゃりと撫でる。いつもならばこんな、少女は照れたような嬉しそうな笑みを浮かべる。
なのに、今回は違った。
「どうして、泣いているんだ?」
優しい声に、陽子は首を傾げる。泣いていると、目の前の男はそう、言ったのだ。
「私は……泣いているのか?」
「あぁ、泣いてるな」
どうして流れる涙なのか、皆目見当もつかずに、少女はぽろぽろと零れる涙を拭う。
悲しい、苦しい、痛い。そんな言葉が浮かんでは消えるけれど、それらは全て、流す涙の理由にはならない。
楽俊は、困ったように身を屈ませ、陽子の顔を覗き込んだ。困惑に揺らぐ眼差しが、赤い太陽を背負ってそこにあった。
「どうして、泣いてるんだろう」
そう呟いた陽子に、楽俊は苦笑して答える。
「何か、悲しいことでもあったのか?」
「ううん」
「どこか、痛いところでも?」
「ううん」
数瞬逡巡して、楽俊は頭に置いた手のひらを、ほろりと零れる涙を掬うために目尻へやった。
「じゃぁ、どうして泣いているんだ?」
「……わからない」
わからないんだ。
陽子はそう言って、しばらく静かに涙を零していた。
楽俊はもう何も言わずに、黙って陽子の頭を撫で続けた。丸く赤い太陽が完全に姿を隠そうとする頃になってようやく、涙が止まった陽子は泣き腫らした赤い目を擦った。
「大丈夫か?」
優しい声音だ。
この声を聞けば、安心した。自分はここにいていいのだと思えた。
「楽、俊」
陽子は静かに佇む男に手を伸ばし、その腰に腕を回した。自分より大きな体は、ことのほか温かく、冷たい陽子の体に確かな熱をもたらした。
「どこへも、いかないで」
ぽつりと零れた言葉に、今までの涙の意味を陽子は知る。
ああ、そうだこの感情は。
「寂しい」
ぎゅうと回した腕に力を込めて、陽子は楽俊にしがみついた。
懸命に、この温かさを求めていた。
ややあって、楽俊の大きな腕が陽子を抱き上げる。唐突に変わる景色。驚いた陽子は小さく声を上げた。
「おいらは、どこへもいかない」
抱きしめられる温もりに、安堵を覚える。
遠く感じた後姿、どこかへ行ってしまうのではないかという不安、一人取り残される恐怖。
決して弱みを他人に晒そうとせず、必死に顔を上げて歩いている少女が、傷だらけでここにいるのだと腕の中の温もりに楽俊は思う。
二度と、離れない。
例え国を隔てようとも、それは離れていることとは違う。
陽子が言いたいのは、願ったのはそういうことではないのだろうとも思う。
それは以前自分が言った、「遠い」という意味であり、彼女の言った「二歩」の距離だ。
もう、あんな苦しい表情をさせたくはない。
腕の中にいる少女が笑顔であることが、楽俊の幸せであり、喜びであった。
この幸福を譲る気は、もとよりない。自ら手放そうだなんて、馬鹿げたことだ。
この幸福を知った今では、知ってしまった今では、そう思う。
「帰ろう。風邪を引いちまう」
「うん」
ふっと全身を包む熱が離れて、陽子は空を見上げた。
太陽は地の果てに沈み、既に薄ぼんやりとした闇が広がっている。
「……手を、握っていても、いい?」
遠慮がちに、上目遣いで訪ねた陽子に、楽俊は苦笑して頷き、その手を差し出す。
「部屋に戻るまで」
久しぶりに感じた他人の体温が、ぽっかりと穴の開いた陽子の心を温かく、満たしていた。