鳴かない蝉


 長い雨の日々にようやく別れを告げ、広がる青空を目にするのは、実に久し振りのことだった。
 大きく窓を上げて空を見上げていた陽子は、背後にいた彼に声をかける。
「――楽俊、夏がきた」
 その言葉に楽俊は窓枠に手をかけ、身を乗り出すようにして雨上がりの空を見上げた。
「……みたいだな」
「うん」
 弾む少女の声に楽俊は苦笑し、その身を部屋へと戻す。
「そんなに嬉しいのか?」
「当たり前だ。梅雨の雨は天の恵みだけれど、外に出られないから」
 陽子は外で、世界に触れることが好きだった。肌で感じ取ることの大切さを、その身をもって体験したからだ。
「陽子はじっとしていられねぇからな」
 茶化すような楽俊の物言いに、陽子は苦笑した。
 ――じっとしていられないのではなく、じっとしているのが不安なのだ。そのまま身動き一つ取れなくなりそうで。
 心の中でそう零すも、実際に口にすることはない。口にしてしまえば本当になってしまいそうで、怖くて仕方ない。それに、楽俊に心配させてしまうのも心苦しい。自分で越えなければならない壁だとわかっている。どうにかしなければ、とも思っているのだが、答えはまだ出ていない。
 そんな葛藤に気付いているのか、いないのか。楽俊は陽子の頭をゆっくりと撫でる。
 その手があまりにも優しく温かいので、陽子はそっと目を伏せた。今、目を覗き込まれでもしたら隠したものを見破られてしまいそうで――暴かれてしまうことを恐れたのだった。
「……散歩にでも行くか」
 視線を上げた先では、楽俊が微笑んでいる。言葉という形にしないことが優しさだと気付いていたから、陽子もただ微笑を返した。
「うん」


 二人は手を繋ぎ、道なき道を歩いていた。それは限りなく散策に近い、散歩だった。
 手を繋ぎ、互いに色々なものを指差しては片方に声をかけた。
「楽俊。ほら、もうこんなに葉が繁っている」
「陽子、見てみろ。夏の花が咲いてるぞ」
「あ、あの雲、船に似てる」
「そうか?」
「そうだよ」
「おいらにはよくわかんねぇな」
「……もう」


 しばらくすると、葉と枝が生い茂り、木々で作られた回廊のような場所に出た。自然にか、故意的に作られたかはわからなかったが、一本一本の幹の太さから植えられたのはかなり昔のものだと知れた。
 見上げると葉の緑が光に透けて輝き、またその隙間から差し込む光が優しい陽だまりを作っていた。
 長く続くそこを歩きながら、光の筋に視線をやりながら楽俊が口を開いた。
「緑が綺麗だな」
「そうだね。でも、夏になると蝉の声が物凄くて、執務室まで聞こえてくるんだ」
「そうなのか?」
「うん。ただでさえ暑いのに、蝉の声が拍車をかける。草案がなかなか進められないときなんて、耳障りでしかない」
「あぁ、そいつは大変だろうな。だけど、蝉は地上に出てから七日間しか生きられねぇんだ。たくさん鳴かせてやれよ」
「それは、わかってるんだけどね……」
 煩いと感じてしまうのは仕方ない、と肩を竦める陽子に楽俊は笑い、不意に繋いだ手を解いて立ち止まった。
「もし、陽子が後七日しか生きられない、ということになってしまったら、最後の七日間をどう過ごす?」
 陽子も一旦その場に立ち止まったが、一日目、と口にしながら大股の一歩を繰り出した。
「七日、かぁ……そうだな、一日目は大切な人達を会って回る。景麒の背中に乗って、色々な場所にね」
 さらに一歩。
「二日目は、浩瀚や遠甫に後のことを宜しく頼む、と執務の引継ぎをする」
 一歩。
「三日目は、王宮の中を隅々まで見て回りたい。今でも、未だ入ったことのない場所があるくらいだからね」
 一歩。
「四日目は、尭天に降りて慶を見て回りたい。どれだけのことができていたのか、そしてこれから何が必要とされるかを見るためにね」
 一歩。
「五日目は、浩瀚と遠甫を交えて四日目に見て回ったことを話すかな」
 もう一歩。
「六日目は、景麒に気難しいところなんかを直すように言う。お互い様だろうけど、景麒には色々と苦労させられているから、ちゃんと言っておかないとね」
 六歩、陽子が進んだところで、ようやく楽俊は声をかけた。
「最後の、七日目はどうするんだ?」
 陽子は振り返ることなく、その場で軽く首を動かして緑の天井を見上げる。
「七日目は、楽俊にそれまでの六日間の感想を聞かせてもらう。そして――次に生まれてくるときは、どのように生きたらいいか計画を立てようかな」
「……おいらは、何て言うんだろうな」
 ふふ、と陽子は笑う。
「楽俊のことだから、真面目な顔して、一日目はあれが駄目だの、足りなかったのだのと、私が逆らえないことを滔々と述べるに決まってる」
「最期の日に、おいらを側に置いていいのか?」
「勿論。でも――死ぬなと言われては困るから、私は笑っていないといけないだろうな」
「……そうしたら、おいらはきっと、馬鹿は止めろと声を上げる」
「……うん。そう、だね。そうかもしれない」
 陽子は振り向かない。
 楽俊は目元を右手で隠したまま、立ち止まった場所から動けない。
「ねぇ、楽俊。私が今、笑顔なのを楽俊は許してくれるかな?」




悲しむ君が好き・・・竜胆