壊れゆく世界の中で
梅雨明けの白い雲の眩しい青空のもと、二人を乗せた獣は天を駆ける。
獣の手綱を握るのは楽俊だ。放浪癖のある王より借り受けている騶虞――たまは事あるごとに騎乗しているためか、最初に比べ随分と楽俊に慣れている。近頃では迎えに現れた楽俊の姿を認めると尾を振るようになっていた。
陽子はというと、手綱を器用に操る人型の楽俊の腰に手を回し、大人しく流れる景色を眺めている。
夏特有の白い雲が浮かぶ空を駆けるのは思いの外、風が心地よく、ともすれば楽俊の背に寄り掛かり眠ってしまいそうだった。
「変わっていないようで、やっぱり変わってるんだな……」
眼下に広がる街並に目を細める、楽俊の言葉に陽子は首を傾げた。
雁国ともなると、よほどのことがない限り、数年で街並が大きく変わるなどとあるはずがない。
陽子の疑問が言葉になる前に、楽俊が口を開く。
「街並は勿論変わってねぇさ。でもな、屋根や瓦の色や木だとか、街の様子は変化するものさ」
老いという変化を持たない陽子には遠い世界の話に聞こえたが、建築物やそれに灯る明かり、木々の緑が増えている堯天を思い出した。
「大国と呼ばれる雁国にはないと思われがちだが、そこに人が暮らしている限り良いようにも悪いようにも変化し続けていくもんだ」
王は変わる。だからこそ、失道する。
そのことをやんわりと指摘した楽俊に、陽子は「そうだね」とだけ返した。
不変なものなどない。だからこそ、人は光を求め、光の差し込む方へと歩き出すのだ。
「それにしてもいい匂いだ」
そう言って陽子は視線を下げ、膝の上の荷物を見つめる。
あちらでの風呂敷のような大判の布に包まれたものが放つ香りは、夏が来たことを実感させる。
柔らかな古布に一つ一つ丁寧に包まれた手の平ほどの薄紅色した果物――桃である。
「それは見舞い用だからな。戻ったら分けてやるから、今は我慢してくれよ?」
手綱を握り両腕が塞がっている楽俊は苦笑交じりに応じる。
桃の送り主は、放浪癖のある少年だ。暑中見舞いだと言って、両手いっぱいの桃を携えての訪問だった。いつものような気紛れの訪れのようだったが、今回の訪問は、陽子の訪れを想定してのものだったに違いないと、楽俊は思う。でなければ、去り際に「少し若いから、三、四日後が食べ頃だな」などと言わないだろう。陽子との約束の日は、その日からちょうど四日後であったのだから。
陽子は視線を上げ、桃から楽俊の後頭部を見つめる
楽俊は真っ直ぐ前を向いて手綱に集中している。今日の楽俊はいつもに比べ口数も少なく、どことなく緊張しているように見えた。そういえば、行き先も知らされず同行していることにようやく気付く。
行き先を陽子が尋ねると、楽俊は「あー」と間延びした声を出しがしがしと頭をかいた。
「悪かったな。行き先を言ってなかったみたいで……」
「いや、それはかまわないよ。少し早い夏休みをもらっていて、今回は三日も滞在できるから。それについていくと言ったのは、私だ。それに、楽俊と二人で空の散歩も楽しい」
こうして、二人で空を行くことは初めてだしね、と付け加える。楽俊は返事の代わりに、自身の腹部に回された陽子の右手を軽く叩き、「烏号へ向かってる」と言った。
「烏号へ?」
楽俊と陽子とで巧国から雁国を目指した旅。
その途中、午寮で襲撃を受けた二人が別々に目指し、そして再会した場所である。
楽俊が先に烏号へ着いたため、陽子を待ちながら生まれて初めての仕事している間に世話になった人物の家族が病に倒れたため、見舞うことになったのだと、楽俊は言う。
「生まれて初めての仕事でなぁ、戸惑うことも多くて失敗もあってな。なのに、親身になって色々教えてもらっていたんだ。とても――感謝しているんだ」
本当は、その仕事をもう少し続けたかったのかもしれない。ふと陽子は思った。もしかしたら、そのままその仕事を続けていくことだってできたかもしれないのだ。陽子と言う枷がなければ。
だがすぐに、否と内心首を振る。楽俊は職に就きたいと言っていた。しかし、それはそのままの意味ではなく、正式に「正丁」と認められたいという意味だったのではないかと思う。一人の人間として認めてもらいたい――そんな切なる願いが込められた一言だったのではないか。今の陽子にはそう思える。
そして楽俊は大学へ入学した。誰に咎められることもなく大っぴらにして、自らが望むだけ学ぶ機会を、その手で掴み取ったのだ。なれば、それは楽俊自身の選択で、きっと陽子によって揺らぐような意志ではなかっただろう。
そんなことを考えているうちに、目的地で烏号に到着し、騶虞はとある建物の裏手に降り立った。
舎館は尚隆の紹介だった。実際に泊まるわけではないが、高価な騎獣である騶虞を預ける場所が必要だろうと教えられたのだ。普段、騎獣を使用しない楽俊は騶虞を安心して預けられる厩に厩番を知らず、国内外を放浪している尚隆だからこそわかる情報をありがたく受け取ったのだった。
たまをつれて厩へ回り、厩番に騶虞を預ける。舎館に泊まらないため、前金として料金の半分を渡した後、その場所からしばらく歩いたところで楽俊は足を止めた。
「じゃあ、おいらはちょっくら行ってくるから、陽子はこの辺の店でも見て回っていてくれ」
「……私も一緒に行っては駄目かな?」
「一人で行くって言っちまってるからな……突然二人で――しかも、顔見知りでもねぇ陽子がついて来ちまったら、きっと気を遣っちまう。今回の訪問は見舞いだからな。相手方の負担になることはしたくねぇんだ。悪いな、ここまでつれて来ちまったのに」
申し訳なさそうに目尻を下げる楽俊に、それ以上言い募ることもできず、陽子は首を縦に動かすしかなかった、
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「……?」
楽俊は案内された部屋に入ったが、そこに求める人物はいなかった。臥牀に横たわる女性に衾をかけていた少女が、楽俊に気付いて振り返る。
「お客様?」
「あ、はい。本日、お見舞いに参りました、張清と申します」
少女は名乗った楽俊に首を傾げ、思案するように虚空を見つめる。
「もしかして、楽俊さん?」
「はい」
楽俊の返事に、少女は目を丸くし噴き出した。
「ごめんなさい。私が聞いていた姿と全く違ったものだったから。そうよね、半獣なのだものね」
少女の言葉に、楽俊はつい耳の裏側をかいてしまう。
「あ~……こちらでお世話になったときは鼠姿でしたからね」
「だからてっきり、その姿で来るのかと」
「さすがにそんな失礼なことは……」
「ありがとうございます。母の――父のために来て下さって」
そう言って微笑んだ少女の瞳は、透き通る水晶のように透明で、楽俊は思わず息を呑んだ。
「……御息女でいらっしゃいましたか」
「三人兄妹でね。兄は父の仕事を手伝っていて、姉は他所へ嫁いでしまったから、末の私が母の世話をしているの」
少女は優しく母親の頬を撫でる。
「こんなふうになってしまうなんて――思ってもみなかった」
ぽつりと、呟く。
「人は――――親はいつか、死んでしまうものだってわかっていたのに、こうして目の当たりにするまでそれが事実だと思えてなかったのね。兄も姉も私も――そして、父も」
水に濡れた水晶のような双眸で少女は笑みを浮かべた。
「父は、裏庭にいると思います。行ってあげて下さい」
楽俊は抱えた桃を少女に手渡し、軽く会釈をして部屋を出ていく。
臥牀の中の女性は薬でも効いているのか、ぐっすりと眠っていて目を覚ます気配はなかった。まだ働き盛りの女性とは思えない、細くなってしまった腕や、肉の落ちた頬には眉根を寄せずにはいられない。記憶の中の女性とは、まるで別人のような――骨と皮だけになってしまった様子に、胸がずくりと痛む。
それが親しい人ならば――愛した女性ならばなおさらだろう。
男の心痛を思い、楽俊はそっと目を閉じる。そして、深い呼吸を一つすると、緑の美しい園林へと足を踏み出した。
夏の日差しに木々の葉は光に透け、石製の榻に座り、手の平を合わせるようにして指を組み項垂れる男は、まるで一枚の絵のように思われた。その様はまるで――祈りのよう。
「お久し振りです」
楽俊の声に、男は驚いた様子で振り向いた。
視線を楽俊に合わせ、目を大きく見開く。それから、ゆっくりと時間をかけて、ようやく僅かに口元に笑みを浮かべて見せた。
「楽俊……来てくれたのか」
「書簡をもらって、来ないわけにはいきません。お二人には本当にお世話になりましたから」
「ありがとう」
そう言って微笑むと、男は静かに目を伏せた。
体に圧し掛かる途方もない疲労が、伏せられた面にありありと見てとれて、楽俊は気付かれないように唇を噛む。少し歳の離れた兄と姉のようだった二人。記憶とかけ離れたその様子に胸が痛む。
そんな年齢ではないはずなのに、疲労し目が落ち窪んだ男はまるで初老の域に達しているように見えた。
「先程、末の娘さんに会いましたよ。良い子ですね。目元が奥さんによく似てる。……こんなところにいては駄目ですよ。奥さん、きっと寂しがってる」
わざと明るい声を出した楽俊に、男は小さく首を振る。
「側にいたって、何かができるわけじゃねぇ」
「そんなことないですよ。いてくれるだけで、病人は心強いものです」
「――――俺が、辛えんだ」
瞳を閉じたまま、男は呻くように言う。何が、と聞き返すことはできなかった。
「昨日、瘍医に来てもらったんだ。だがよ、もう、手の尽くしようがねえんだとさ。もってあと十日だと。覚悟しといてくれって、そう言われちまったよ……」
言いながら、開けられることのない男の双眸から、堪えきれずに涙が零れた。
「あいつな、知ってるんだ。もう助からないって、知ってるんだよ。なのに、俺らの――俺のために知らない振りをしててくれてる……でもよ、俺は何もできねえんだよ。馬鹿みたいにおろおろするばっかりで……情けなくってよ。あいつの側にいられえんだ!」
「そんなことねえ」
傍らに膝をつき、頭を抱えこんだ男の両肩を掴み、顔を上げさせ、楽俊は強く否定した。
「何もできないことなんて、そんなことない。だって貴方は、あの人の伴侶なんだ」
独り、死の恐怖と戦っている彼女の――唯一の支えであり、生きる希望なのだ。
「もう時間がないんですよ? だったら、なおさら傍にいてやらないでどうするんです。いなくなってしまうんですよ? 消えてしまうんですよ? どんなに泣いたって、喚いたって、触れることだってできなくなるんですよ!」
開かれた男の目からは、涙が滂沱として溢れている。
「今のうちに一緒にいないでどうするんです。泣いてたっていいじゃないですか。後になって、あれも言いたかったこれも伝えたかったって、そんなこと悔やんだって、もうどこにもいなくなるんですよ?」
「んなこと無理だ! あいつを亡くしちまうなんて、耐えられねえよ!」
縋りつき、子どもみたいな泣き声を上げる男を抱きしめながら、楽俊は決して涙を見せなかった。
届けられた書簡の内容から、この事態を楽俊は少なからず予想していた。
何故、男がわざわざ楽俊を呼び出したのか。おそらく親しい友人や、家族、そして、彼のもとで働く人間には見せられなかったのだろう。彼は店でも家でも主人なのだ。そうであることに誇りを持っており、だからこそ、弱みを見せられなかった。見せたくなかったのだ。
だからこそ、季節の挨拶を書簡で年に数回交わすだけの楽俊が選ばれた。
愛する妻を失うということを、認めたくない、認められないのだ。どうしようもなく悲しく辛く、怒りのやり場がないのだ。
泣きじゃくる男は、まるでいやだいやだと駄々をこねる童のようだ。しかし、どんなに辛くとも、悲しくとも、現実は容赦なく男に突きつけられる。
男は生きていかなければならないのだ。
「神様は助けてはくれません。奇蹟なんて、そう簡単には起こらない」
この世で一番不幸なのだと、自分の殻に閉じ籠っては駄目だ。それで楽になるように思えても、そうではない。自身だけではなく、男を大切に思う人々までも傷つけてしまうだけだ。
「だけど、奥さんと出会って結婚した。こんなにたくさんの人間の中で――それは、ものすごい奇蹟だ」
「――……」
「もうすぐ死ぬのかもしれない。時間がないのかもしれない。でも、奥さんは今、生きてる」
与えられた時間がある。例えそれが残り僅かでも、まだ時間は残されているのだ。
「大事なものを失う気持ちは、結局は自分にしかわからないんだとおもいます。今の貴方の気持ちだって、おいらになんかわかるはずもない。それでも、おいらを呼んだのは、言ってほしかったからでしょう? 泣いてもいいんだって。我慢しなくていいんだって」
「――……」
男は何も言わなかった。子どものように楽俊に抱かれて、涙しながらもじっと黙ってその言葉を聞いている。
ゆっくりと、静かに言った。
――楽俊自身が信じていることを。
「残ります」
体が、魂が、煙のように掻き消えて、もう二度と会えなくなっても。
「その人が自分の隣にいたんだって、その事実と思い出は胸の中に残る」
誰かに盗られることもない、美しい宝物として、自分だけの心に残るのだ。
「きっと、残る」
噛みしめてそう言った楽俊を、男は涙もそのままに見返した。
男に言葉はない
あるのは、新しく溢れ出す、尽きることのない透明な悲しみだけだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「楽俊」
ようやく待ち人との姿を認めた陽子は、嬉しそうにふわりと笑う。近くの店を見て回ったのだろう。その手にはいくつかの荷物が増えていた。
楽俊は陽子の様子に微笑み、厩番へと残りの金を渡した。たまをつれて、降り立った場所へ向かう楽俊の後ろ姿はどこか拒絶的で、陽子は声をかけるのを躊躇した。
「死んじまうほうと残されたほう、どっちが辛いんだろうな」
「楽俊?」
脈絡のない話をする楽俊に、陽子は首を傾げるしかない。
楽俊は依然として陽子に背を向けたまま、ある建物の屋根を見つめた。
臥牀に横たわる妻の頼りない手を、縋るように握りしめる男の姿が、瞼の裏に焼きついて離れない。
例え肌に爪が食い込み血が滲むほど力を込めても、消えかけた彼女の生命の火を繋ぎ留めることはできない。その手は他愛なく、あっさりと離れていくとわかっているというのに。
人の手には不思議な力が宿っているという。
怪我や病気を、手の平を翳し体温を分かち合うことで癒してしまう、手当てという言葉がある。誰かに教えられた知識ではなく、本能で人は自ずとその行為を行なうのだろう。
男は今、死の淵で戦う妻に「手当て」を施している。人の力を超える奇蹟が起きることを信じて。
――離さないでくれ。
強く二人を結ぶ、証とも言えるその繋いだ手を。
願わくは、男の想いが、愛情が、手の平を通して彼女に伝わりますように。
混沌とした意識の中、繋いだ手の温もりが彷徨い苦しむ彼女の一筋の光となり、温かい安らぎになりますように。
――冷たく孤独な死の翼に包まれ、独り旅立つ、その最期の瞬間まで。
「離さないでくれ」
無意識に呟いた楽俊の手に、温かな手の平が触れた。
何の事情も知らないはずなのに、陽子はどこか痛ましそうな表情で楽俊の手と自らの手を繋いだ。
楽俊は、静かに横に並んだ陽子を、片手でそっと抱き寄せる。
腕の中の温もりに切ない幸福を感じながら、楽俊は祈るように双眸を閉じた。