深夜の来客



 水底から引き上げられるような感覚に、楽俊はふと瞼を開けた。
 深い眠りから無理矢理起こされたことで、春霞のように不明瞭な意識のもと、楽俊は本能的に臥牀から起き上がり、夢遊病者のように体を揺らし、扉へ近付いていった。
 眠りの底から意識を引き上げたのは、馴染み深い気配だった。気のせい、あるいは夢かもしれないが、確かめるに越したことはない。

 惰性的に鍵を回し、やや建てつけの悪くなった扉を開ける。やはり、そこには人影があった。こんな非常識な時間に訪ねてくるとしたら、夜遊びが過ぎる男か、はたまたその男と同じく自由奔放な少年か――などと考えていた楽俊の予想を裏切り、薄い月明かりに照らされていたのは目を丸くして顔を上げた少女の姿。
 ――正直、驚いた。
 時刻は既に丑時は確実に過ぎているはずである。少なくとも自分が臥牀に入ったのはそのくらいの時間だった。約束などはしていなかったはずだ。それに、こんな遅い時間に隣国の王たる陽子が外を出歩くのは色々と問題がある。加えるならば、陽子はそんな非常識なことをする人間ではない。ならば、何かあったのか。
 半ば閉じかけている目と一向に回転しようとしない頭で、どうにかそこまで状況判断した楽俊の耳に、陽子の慌てたような声が届く。
「すまない、休んでいたんだろう……?」
「よう、こ?」
 可哀想に思うほど慌てている陽子の名前をぼんやり呼ぶと、びくりと身体が揺れて顔を俯かせた。
「……――る」
「ん?」
「帰る、ね。ごめん。おやすみ」
 いつも溌剌とした少女にしては珍しい程の元気のない声で告げられた言葉に、思わず楽俊は腕を伸ばし、剣を扱うには細い手首を捕まえる。既に陽子は身体を反転させて一歩を踏み出そうとしていたのだから、間一髪で引き止めることに成功したといえるだろう。
 事情はよくわからないが、確かなことは陽子が何やら問題を抱えているということ。我が儘を言ってほしいと願うほど、楽俊に対し遠慮を見せる陽子がこんな時間に自分のもとを訪れ、にもかかわらず、すぐに帰ると言う。おまけに元気もない。問題点だらけだ。
 なかなか回転のよくならない頭で考えながら、しかし陽子の体だけは離さぬよう腕に力を込め、その細い体を部屋の中に引き摺り込む。暦上は春といえども、まだ寒い。あのまま扉を開け放っていてはお互い風邪を引きかねない。
 常であれば、陽子が風邪をひく存在ではないとわかっていることだが、未だ眠りの淵を彷徨う意識では、そんなこともわからなくなっていた。
 どうしよう、という考えがあったわけではない。ただ、陽子をこんな――今にも泣きだしそうな顔のまま帰すわけにはいかないという、その意識だけで体を動かす。
「あの、楽俊! 靴が――」
 押し倒すように臥牀の上に倒れ込むと、突然の状況に慌て腕の中から出ようとする陽子を抱き寄せたまま器用に靴を脱がせ、片手で衾を被せ、ぎゅっとその身体を抱き込む。先程まで包まっていた楽俊の体温の名残りと、何より側にある自分以外の体温は、冷えてしまった体を温め穏やかな気持ちにする。陽子にもそうであればいいと思う。
「ようこ」
 できるだけ優しく耳元で名前を呼んでやれば、途端に腕の中の体から力が抜けた。
「おいらは、眠い」
「すまない……」
 何度目かの謝罪に苦笑し、責めているわけではないことが伝わるよう細い体をあやすように叩く。
 真夜中だろうが明け方だろうが、陽子が望み必要とするならいついかなるときも、自分に会いにきてくれてかまわない。自分を頼り甘えてくれている証だというのなら、嬉しい。
 話したいことがあるのなら聞いてやりたい、この腕を必要としてくれるのならいつだって貸してやりたい――それが少しでも陽子の心を慰めるのなら、それ以上に喜ばしいことはない。
 しかし話を聞いてやりたいのは山々なのだが、ここ数日は与えられた課題が立て込んでおり楽俊は連日徹夜をせざるをえなかったため、ようやく論文を提出し終えた体は何よりも睡眠を欲していた。肝心なときに役に立たない自分が恨めしい。
「悪いが、起きてられそうにねぇんだ。何かあるんなら……明日聞く、から」
「楽俊」
「だから、今は……一緒に寝てくれ」
 もとより半分寝ているような状態だった楽俊は、衾と陽子の身体の温かさに意識を手放す寸前だった。しかしそれでも、陽子が「わかった」と答える、今晩聞いた中では一番嬉しそうな声を、確かに耳にした。
 ――ああ、明日はとことん付き合ってやろう。
 そう誓いを立てて、楽俊は陽子の髪に鼻先を埋め、静かに目を閉じた。





雛罌粟・・・乙女らしさ