月夜の願い
その背に伸ばしきれずに下ろした腕と、形になることのなかった言葉の行く先。
寂しくて、泣きそうになってしまっているのに、何と伝えたらいいかわからない。想いは確かにあるのに、伝えようすると形にできない。そんなときはどうしたらいいのか。誰に問うこともできないと問いかけに答えてほしい。
目に見えるもの全てが真実なら、どんなにかいいだろうと思うのだ。
――気持ちが見えたり、触れられるようであればいいのに。
衾褥の中で、陽子は天井を見つめながら小さく呟いた。
「どうして?」
隣で頬杖をつきながら読んでいた本を閉じ、傍らの小卓へと置いた後、楽俊は陽子へと視線を移した。
灯りの油はもう尽きそうになっており、ちょうど、読むのをそろそろ止めようかと思っていたところだった。
楽俊の視線に応じるように体を反し、靠枕に顎を乗せる。
「そんなに深い意味はないのだけど――ただ単に見えたり、触れたりできたらなって」
「へえ……それでどうするんだ」
「どうって――そしたら痛いことや辛いことを、避けていけるから」
――それに、気持ちが見えればわかりやすくていいじゃないか。
そう伝えると、楽俊は陽子と同じように体を反転させ、ごろりと仰向けになった。
「んー……そうとも言い切れないと思うけどな」
「どうして?」
「……痛いのとか、辛いのとか。そういうのは確かに嫌だよな。おいらだってそうだ」
「うん」
「でも、それが全部なくなったらいいのかって言うとな。違うと思う」
「……?」
「楽しいこととかいいことだけしか残らないと、それはそれで、きっと辛い」
楽俊の言っている意味がよくわからなくて黙っていると、ちょっと困ったように笑われた。
「痛いこと、辛いことも悲しいことも。そういうのがあるから、幸せは初めて『幸せ』になるんだってことだ」
「……そう、なのかな」
「少なくとも、おいらはそう思う」
「……」
「まだ、わからないだろうな」
「子ども扱い?」
「そうじゃないんだけどな……それに全部見えたりしたら、きっと大変だしつまらないぞ?」
確かに、それはそうかもしれないと思った。この世界が綺麗なものだけで構成されているわけではないことを、陽子は嫌という程、味わってきた。見たくないもの、見なくていいもの。
「――でも、やっぱり見えたり触れられたらいいな」
「どうして?」
「その人が何を考えているのか、何を思っているのかを知りたいし、理解できたらと思うから」
相対する人の考えを知ることができたら、政はきっと今より随分と楽になるのだろう。しなくてよい諍いもしなくていい。何より、相手に自分の考えを知ってもらうことができる。
そして――――楽俊の心の中を知りたいと思う。
零れてしまいそうなその想いは、口にできなかった。
楽俊が伸ばした指先で陽子の頬に触れた。遠慮気味に少し触れるだけのそれに、自分から顔を近付ける。頬を手の平で撫でられ、離れたくないからその上から自分の手も重ねた。
「陽子は、おいらのことが知りたいと思うのか?」
「うん」
「全部か?」
「うん」
「……そうか。おいらも陽子のことが全部知れたら、嬉しいだろうな」
辛いこととか痛いこと、嬉しいことや楽しいこと。その全てを共有し分かち合い、他者からの心ない言葉などから守ることができたなら、と楽俊は思う。どんなにか素晴らしいだろうと。
「でも見えないから――」
楽俊が体を寄せ、両手で陽子の頬を包み込むと、互いの額を寄せた。距離が一層近付き、唇が触れてしまいそうだった。
「だから、見えないかわりにちゃんと話してくれ」
「え?」
「痛いとか、辛い、とか。我慢せずに」
――ちゃんと伝えてくれ、おいらに。
その声音はひどく優しい。楽俊の手と、触れている陽子の頬が同じ温度になっていく。
「言葉にするのは大変で、それこそ辛いときもあるだろうけど」
「……きっと、伝わりきらないよ。それに、ちゃんと上手く伝えられるかどうかも――」
「なら伝わるまで何度でも伝えてくれ。何度でも聞くから」
「……」
「全部、聞かせてくれ」
「……うん」
頬から伝わる温もりとその子守唄のような声に、段々と瞼が重くなっていく。
それでもね、楽俊。やっぱり見えたらいいと思うんだ。
私には見える物しか信じられなかったら。そうしなければ、この世界では生きていけないと思っていたから。
でもね、楽俊。信じているんだ。
今の私には、信じられるんだ。
「楽俊」
「うん?」
「……何でも、ない」
伝えようと試みたものの、やはり言葉にすることはできなかった。それでも、微笑む楽俊は満足気に見えた。
「おやすみ、陽子」
その柔らかな声を最後に、陽子はゆっくりと瞼を閉じた。
◆ ◆ ◆ ◆
人の性質は、ちょうど入口のわからない藪のように、わかりにくいものなのだという。人の性質は容易に知ることはできないもので、だからこそ己も、他者も救われている部分があるのではないかと思う。
いつまでもいつまでもその清らかな想いが消えなければ良いと願う反面、自らの手で壊してしまいたいという衝動を抱いてしまう己を、決して知られたくはない。
規則正しい寝息をたてている陽子から離れ難く、楽俊はしばらく陽子の頬を撫でていたが、起こしてしまっては可哀想だと、傍らの髪を少しだけ梳いて、触れていた右手を自分の側へと戻した。
温もりが消えた手の平がやけに寒く感じ、思わず硬く握り込む。
「気持ちが見えたり、触れられるようであればいいのに」
陽子の呟きは、きっと誰もが一度は考えたことがあるだろうことだった。
痛みを負ったときに、その痛みを切り離せたらいいのにと。人を想うとき、その想いの大きさを示せたらどんなにかいいだろうという、純粋な考え。
しかし、陽子がそれを口にしたとき、正直、楽俊は戸惑った。
勿論、陽子が背負っているもの、感じていることの全てをこの身に受けられるのならば、共に分かち合うことができたならば、そんな幸せなことはない。その全てを知ることができるのならば、それは何物にも替え難いことだ。
しかし、と楽俊は思う。
もしも、自分の持っているもの全てを見られたとしたら。自分の抱えているもの全て曝け出さねばならないとしたら。
――それは、どうしてもできないと、思った。
今、抱いている想い、欲望。心の内の奥底に隠れている淀みを見てしまえば、陽子の目を覆わせてしまうだろう。
楽俊は陽子を愛している。それを陽子も受け止めてくれている。
しかし、自分の想いの本当の大きさは、陽子を押し潰してしまうだろうと知っていた。
そして、奥に潜む邪なものを見れば、どこか潔癖な一面を持つ陽子は眉を顰めるだろう。全てを知ったら自分から離れていってしまうかもしれない。
そんなことを考えてしまえば、ただただ恐ろしく、当り障りのないことを言うしかできなかった。
「見えない代わりに話してくれ」「何度でも伝えてくれ」。これ以上とない綺麗事。
勿論、本当にそう思ったことではあった。しかし、本音を言ってしまえば、ただの独占欲だ。
何故なら全ての人に、己の全てのことが見られるならば、それはつまり陽子の全てをも見られてしまうということだ。そんなことが耐えられるはずもない。
だから、自分以外に全てを見せないでくれ、と願った言葉でもあったのだ。何とも馬鹿馬鹿しいほどの執着心。
――ほらな、こんなところ一つとっても見せられるわけがないだろう。
実のところ、痛みも苦しみもないに越したことはないと思う。楽しいことや嬉しいことだけで生きていけるなら、陽子だって、誰だって辛い過去を背負うこともなかっただろう。その方がいいに決まっている。
――だけど、ごめんな陽子。おいらは愚かだから、こう思ってしまう。
その苦しみがあったから、陽子という宝を得ることができた、と。
――おいらはそれが嬉しくて、たまらないのだと。
しかし、そんな最低な思いを決して見せるわけにはいかず、楽俊は必死に奥底に押し込める。
許してほしい。大切が故に大事なお前に嘘をつくことを。狡くて、ごめんな。
ふと、突然暗闇が訪れる。とうとう油が尽きたようだ。
窓から差し込む月の光に照らされた陽子の寝顔を見つめながら、楽俊は静かに瞼を下ろす。
未だ固く閉じた手の平に、陽子の温もりが少しでも残っているような気がして、その手にゆっくりと唇を寄せる。
しかし、触れていた頬と違って、そこは酷く冷たかった。