眠れる森の美女



 執務を終え、楽俊の姿を探す陽子に声をかけたのは、探し人の相手をしていると伝え聞いた祥瓊だった。
「あら、陽子。楽俊なら園林を散策しているはずよ」
「わかった。ありがとう!」
 逸る気持ちを隠そうともせず、陽子は足早にその場を立ち去る。景麒が見れば眉を顰めるだろう、過ぎ行くその背に向かい、祥瓊は零れる笑みを止めることなく踵を返した。
 陽子の、幼子が親を慕うような言動は微笑ましく、祥瓊の内の空ろな部分を温めてくれる。過ぎ去りし日の、あの大地のように凍える内なる自分に、木漏れ日が優しく差し込むように。
 そして、思わずにはいられなくなるのだ。どうか、この日々が続いていくようにと、願ってしまうのだ。
 自らの願いが、もう届かぬものと知っているから。
 ――せめて、祈りを。

 広い園林のどこを探そうかと走る速さを弛めると、その足元から低い声が響く。
『お客人は、路亭にいらっしゃるようです』
 驃騎の言葉に陽子は足を止める。
「路亭に?」
『はい』
「わかった。ありがとう」
『失礼いたします』
 その気配が遠ざかるのを見送るように確認すると、陽子は向かう場所へと足を向けた。
 路亭に近付くと、意外にも広い背中が見えた。頭が下を向いているので、何か書物でも読んでいるのだろうか。
 なるべく楽俊の邪魔をしないようにと歩調を緩め、しかし、気配はそのままにゆっくりと歩み寄る。その正面に回り、名を呼ぼうと口を開くも、そのまま静かに息を吐いた。
 下がったままの頭。規則正しい呼吸音。弛んだ手足。
 ――寝てる……。
 恐る恐る近付き、その顔を覗き込んでみるが、楽俊の瞼が開くことはなかった。
 約束をしていたものの、無理をさせてしまったのではないだろうか。
 本当はとても忙しい中、時間を工面して来てくれたのではないだろうか。
 隣国の王から借りたスウ虞に騎乗してくることが、その体に負担をかけていることを陽子は十分に理解しているつもりだ。
 しかし、その負担も自分が思う以上に、楽俊にとって大きいものではないのだろうか。
 隣国どころか王宮から出ることすら、なかなか叶わない自身を歯痒く思うのは、今回が初めてではなかった。
 唇を無意識のうちに噛み締めていることに陽子は気付き、慌ててそれを止めた。歯痒く思うときの陽子の癖を指摘したのは楽俊で、それを止めるように言ったのも楽俊だった。
 曰く、自分を傷付けるような癖を直せ、と。
 いつだって楽俊は呆れたような、困ったような、そして、優しい声で諭し、許し、陽子を光ある方へ導いてくれる。
 陽子は、石で作られた榻で眠る楽俊の隣に座ると、その肩に頭を寄せた。そうやって体に触れても、楽俊はまだ目を覚まさない。体を通して伝わる呼吸の振動と、微かに感じられる楽俊の体温に、陽子はそっと瞼を閉じた。

 いつからだろうか。
 一体いつから自分はこんなにも、楽俊に依存してしまっているのだろう。
 依存という言葉だけでは説明ができない、けれど、確かに依存している自分を陽子は知っている。
 玉座という自身の立ち位置にも、以前に比べれば慣れてきたように思う。至らない自分を歯痒く思うこと、あちらの常識が通用しないこと。王として決定を下すこと、切り捨てること。そして、妥協することに、諦めること。
 あちらにいたときだって、同じようなことの繰り返しだった。それに、王としての責任が加算されたにすぎない。それは骨が折れるほどの重責ではあるが、分け合ってくれる人達がいる。理解者がいることで随分と軽減されている。
 諦めることも、慣れている――はずだった。
 なのに、どうしても、諦められない。譲ることなどできはしない。
 楽俊のこと、その一点に関してだけは、どうしても。
 こんな自分なんて知らなかった。依存し、執着し、掴んだ手を離すことができない。それは、いつか楽俊を苦しめるだろう。しかし、離さなければ、と思えば思うほど自分の手は楽俊を掴んで離さない。まるで、景麒に恋着した予王のようだ。これだから女王は、と陰で言われたとしても仕方がない。
 そう、仕方がないのだ。
 ――どうやっても、手放すことができない。だから、諦めてほしい。
 内なる壁が決壊してしまった、あの嵐の夜。想いを伝えた後、陽子は楽俊にそう告げたのだった。
 ――どうしても手放せない私を許してほしい、と。
 絶対に感情を表に出してはいけないと思った。
 懇願してしまえば、それは楽俊を困らせることになる。友人だと言ってくれた、楽俊の想いを利用してしまうことになる。
 自らの領域に入れた人物に対して楽俊は優しい。その優しさは、麒麟のように決して万人に向かってはいない。相手と自分を区切ることのできる冷静さを、楽俊は持っていた。
 境界を引かれてしまう覚悟はあった。距離を置かれるだろうこともわかっていた。それでも、譲れなかった。
 その後は、思いもよらなかった良い結末に転じたのが、今でも陽子は信じがたい。今でも、不思議だ。自分のどこに、楽俊が想いを抱くようになったのか。
 けれど、その想いを疑ったことはない。それは、楽俊を疑うことと同義だからだ。
 考えを巡らせ、そこに行きつく自分を陽子は嗤った。
 結局、楽俊に依存することで、安寧を得ようとしている。それもまた事実だ。
 危険だと思う。常に絶対的に縋りつける存在を求めてふらついているだけの自分を浅ましいと思うが、理想論だけでは生きていけない。
 独りきりで己の闇を曝け出した、あの旅を終えた今の自分ならわかる。
 人には、希望を託す対象が必要なのだと。
 祈りを捧げる対象、寄りかかる大樹、必ず夜は明けるのだという事実が必要なのだ。揺るがず美しく、飢えた体を満たすことに何の役にも立たない「それ」が必要なのだ。
 あちらで、日々の糧を削ってまで祖霊や神仏を奉る人が多くいるのは何故か。
 恐ろしいからだ。広過ぎる世界の中で、狭過ぎる思考の現在が、小さな自分が恐ろしいからだ。精一杯の自分は「今」に必死で、明日の「未来」も考えられぬからだ。
 明日は未知で、けれど、未知のものにこそしか託せない。
 託して縋りながら救いを求める。
 救われようとすることで精神の安定を保つ行為は、自らを救うことに似ている。
 自己満足かもしれない。文字通り命をかけた王という役割に酔っているのかもしれない。それでも、私が私を生きていいと、生きたいのだと思えるなら、それは「救い」だ。この世界の理を疑う陽子の「信仰」の形だ。
 そして、陽子にとってのそれは楽俊なのだ。
 醜い自分の全てを曝したにもかかわらず、自分が自分であることを受け入れ、許してくれた人。差し伸ばした手を掴んでくれたその人に、縋るなと言うほうが無理だ。
 この世界が美しいと思えるのは、その手を伸ばしてくれた楽俊がいるからだ。
 楽俊が、いてくれるからなのだ。


 いつの間にか眠ってしまっていた陽子の意識を浮上させたのは、体へと響く、先程まで眠っていたはずの楽俊の声。
 眠ったままのふりをしたのは咄嗟のことで、何故そんなことをしたのか陽子自身もよくわからなかった。
「なぁ、陽子。おいら達は、二人きりじゃねぇ」
 二人きりではないから恐ろしい。
「だから、おいらと離れていても、お前は独りきりじゃない。そうだろう?」
 きっと、二人きりだけでも恐ろしくて堪らないのだろう。
「お前には、側にいてくれる人がいる。共に戦ってくれる人がいる。背中を守ってくれる人がいる」
 だけどね、楽俊。皆は、私の愚かで醜い私を知らない。
 知られないようにしているのは、私だ。だって、そんな私を知っても、変わらずにいてくれるかどうかなんてわからないだろう。
 怖くて、怖くて、身動きが取れなくなってしまいそうなんだ。
「お前の味方は、お前とおいらだけじゃねぇんだ」
 ――だから、茨の中から出ておいで。
 ――茨はお前を守ってくれるが、その場から動けなくしてしまうものでもあるんだぞ。
 体を伝わり響く先程とは異なる振動。響く声。この葉を揺らす風。その隙間から零れ落ちる温かな光。
 目の奥が熱かった。
 理由などわからなかったが、今泣いても恥にならないことは陽子にもわかった。
 いつだって陽子を導く手の持ち主を、陽子はそっと呼んだ。
「楽、俊」
 涙で揺れた声は無様で、愚かしく醜い陽子を表しているようでもあった。
 それでも、目を開けなくてはならない。待っていてくれているから。
 何より愛しい、その人が。
 ――現におかえり、陽子。
 そうやって楽俊は、いつだって陽子に手を差し伸ばすのだ。
「ただいま」
 だから、陽子は恐ろしくて堪らない一歩を踏み出すことができる。
 温かな希望と共に。






ニゲラ;夢路の愛情