眠れる森の美女
不意に明瞭になった意識の中、楽俊は動揺する心を落ち着かせるために、ごくりと息を飲み込んだ。
自分の置かれている状況――何がどうなって今に至るのか、全く把握できない。
どうやら、路亭で転寝してしまったらしいことはわかる。先日大学で出された大量の課題をようやく済ませた楽俊は金波宮を訪れたのだが、約束の時間までに陽子の執務が終わらなかったため、祥瓊に言伝て園林で時間を潰すことにしたのだ。
しかし、長い間課題に取り組んでいたため自覚ないまま疲れていたのだろう。すぐに体は重たくなり、近くにあった路亭で休むことにした。腰掛けたそこは木の葉越しの光が暖かく、風も通る心地よい場所で、しばらく休憩するはずが、つい眠り入ってしまったのは何となくわかる。
しかし、問題は何故ここに彼女がいるのか、ということで。
――動けない、よなぁ……。
左肩に小さな頭が乗っている。身じろぎ一つすれば彼女の体は崩れて、目覚めてしまうだろう。そんな不安定で絶妙な均衡を保っていた。
いっそ動いてみるか、と楽俊は考える。きっと彼女は目を覚ますだろう。運悪く膝枕状態になれば、大慌てで謝るのだろうが、それは大した問題じゃない。
陽子は、とそっと隣を窺うと、静かに寝息を立てていた。長引いた執務などで疲れているだろうに、とても安らかな寝顔だ。
空を見上げると、もう日は南天を過ぎてはいるが、夕方というわけでもない。午睡にはもっとも相応しい時間ともいえる。
楽俊は少し考えた後、肩に乗った陽子の頭に頬を預けた。官服に焚き染められた白檀がふわりと香る。
眠る少女の穏やかな表情に、もう少しだけこうしていようと楽俊は微笑む。同時に、視界に入ったそれに、笑みが変わるのを感じた。
惜しげもなく、眼下に晒される白い喉元。
口元に浮かぶ笑みと、湧き上がる苦味にも似た切なさ。
陽子は武人としての気質を持っていたのだろう。
曲がったことが嫌いで、ぶっきらぼうで――共に旅をしていたときから徴候はあったが、顕著に見られるようになったのは登極してからだと楽俊は思う。
だからだろうか。陽子はめったなことで他人に隙を見せない。
喉は急所の一つで、例の反乱後にきちんと剣術を学び始めた陽子が、そのことを知らないはずがない。
なのに、それが今、惜しげもなく晒されている。
楽俊は寄り添う頭にそっと口付けた。
一撃必殺の弱点ともいうべき場所を晒すのは、自分以外にいないだろう。
快楽とも違う愉悦が体を走る。誰にも懐かない獣を手懐けたような、そんな高揚感。
――あぁ、なんて愛しい獣。
風に揺れる木々を、光を纏う緑を見つめた後、陽子の寝顔を眺め、楽俊はそっと瞼を閉じた。
思い出されるのは、祥瓊が語った話。
あれはいつだったか。ずいぶん前であったようにも、つい最近であったようにも思う。
今日のように陽子を待つ楽俊の相手を、祥瓊がしてくれていたときだ。
おそらく口にした祥瓊に他意はなかったのだろう。
親しいがゆえの気軽さで話しかけられた、その内容。しかし、楽俊にとって衝撃以外の何物でもなかった。
「ねぇ、楽俊。知ってる?」
そう言って首を傾げた飾り気のない祥瓊は確かに美しく、人の美しさとはかくあらんと楽俊は思った。
「祥瓊。それだけじゃ、おいらは何とも言えねぇぞ」
その返答に、あぁ、ごめんなさいと笑みを浮かべ、祥瓊は続きを話し出す。
「陽子のことなのだけれど……陽子はね、私達が近付くとすぐに気付いてしまうの。二十歩以上距離があったとしても、よ。それに眠っていたとしても、すぐに起きてしまうわ。でも、楽俊相手じゃ、そうはならない。それが……ちょっと悔しくて」
手元の茶器を見つめた後、祥瓊は苦笑を浮かべた。
「無意識の内にそうしているのでしょうから、陽子にも言えないし――でも、本当に不思議」
それを聞いたとき、表には出さなかったが、心の臓を鷲掴みにされたようにひどく苦しかったのを覚えている。
眼下で眠る少女は、その無意識下で今なお、他人という存在に怯え傷ついたままなのだ。
少女が安心して眠れる場所が、己の傍らのみという喜びと、悲しみに似た切なさ。
愛しい獣の傷は癒えず、未だその心を蝕んでいるのだという。そして、少女にその自覚がないことが、さらに楽俊を苦しくさせる。
楽俊には、祈る神はいない。縋るものもない。
願いは自分の手で掴み取るものだと、陽子に語ったことも覚えている。
だが。
――どうか。
愚かな唯人である自分には、そう口にするより他に術がない。祈らずにはいられない。
そして、それはきっと許されることだ。
ふと、楽俊は閉じたままだった瞼を開いた。微かに響いていた鼓動の早さが僅かに上がったのだ。
少女の覚醒は近い。夢から現へ帰ってくる。
戻ってくるのだと自覚すると共に、何故か伝えなければという衝動が楽俊を支配した。
伝えなければ、いつか後悔してしまうという、確信めいた予感。
「陽子」
伝えなければという衝動の反面、届かなくてもいいと思った。
「なぁ、陽子。おいら達は、二人きりじゃねぇ」
言葉にするのは、祈りとも願いともいうべきものだから。
「だから、おいらと離れていても、お前は独りきりじゃない。そうだろう?」
先程よりも速い音、温かくなった体温。
「お前には、側にいてくれる人がいる。共に戦ってくれる人がいる。背中を守ってくれる人がいる」
傷つき、目の奥底に揺らぐ暗い光を秘めて、命綱のように水禺刀を離そうとはしなかった少女の姿。信じたくとも信じられず、それでも信じることを止めず、楽俊に向かって差し出された、傷つき荒れた小さな手の平。
いつだって鮮明に思い出せる、愛しい獣の姿。
「お前の味方は、お前とおいらだけじゃねぇんだ」
――だから、茨の中から出ておいで。
――茨はお前を守ってくれるが、その場から動けなくしてしまうものでもあるんだぞ。
囁くように歌うように告げると、小さな頭の乗った肩がじわりと濡れる。
「楽俊」
少女は泣きながら、夢から目覚める。
苦しくて厳しい。そして何より愛しい世界へ。
「現におかえり、陽子」
――ただいま。
返された声は濡れて、震えていた。