熱い手
「楽俊っ!」
嬉々とした声が名を呼んだのと、廊下を元気よく走る音が近付いてきたのと、ぼすっと暖かいものが体当たりした勢いのまましがみついてきたのは、素晴らしいことにほぼ同時であった。
「……陽子、どうしたんだ?」
いつからか、慎み云々と語るのも諦めた楽俊は、そのままの体勢でしがみついて離れない陽子の腕をぽんぽんと、叩いた。
「何もないよ。ただ、楽俊の姿が見えたから嬉しくて!」
鼠姿の楽俊をぎゅっと離さないままであるのに、その表情が笑顔であることをわかってしまい、楽俊も頬が緩んでしまう。
ゆっくりと体を離し、幾分か高い位置にある陽子の顔を、楽俊は見上げた。
「そいつは嬉しいな。だけど、陽子。廊下を走っちゃいけねぇだろう」
一国の主がそんな調子じゃ――と、しっかり小言を落とす楽俊に、
「楽俊は、煩い」
と、陽子はむっと頬を膨らませた。
本当に表情豊かになった、と思う。
陽子のめまぐるしく変化する様子に、改めて思わずにはいられない。
いつも何かに脅え、傷ついた獣のような反応を見せていた、あの旅のときからは考えられないほどの豹変振りに、楽俊はふっくらと微笑んだ。
「楽俊に早く会いたかったんだ。緊急事態だろう?」
楽俊の微笑みに、陽子はつられるようにして笑った。
人型になれば声も低くなり背も肉付きも変わっていく楽俊に戸惑いを覚えたこともあったが、いつでも優しい温もりは以前と変わらずに安寧と喜びを与えてくれる。
「……そうだな。緊急事態じゃしょうがねぇ。おいらも早く陽子に会たくて、急いで来ちまったしな」
友人である自分に甘えてくれるのは嬉しいが、心配もしてしまう。
慶国の王として、想像もできないほどの重荷を背負わなければならない陽子に、少しは厳しくあった方がいいのだろうかと思案しつつも、王としてではなく、陽子個人の感情を出せることも今の陽子には必要なのかもしれないと、誰にともなく心の中で言い訳する。
「なら、相思相愛だね! さすが楽俊だ!」
「……」
その言葉の意味を理解しているのかと、そして何がさすがなのか問おうとして、うまく言葉が出ずにう、と呻きを発して楽俊は眉を寄せた。
顔いっぱいの笑顔を浮かべている陽子の手を握る、自身の腕に力が入る。
「どうした楽俊。具合でも悪いのか?」
「いや、そんなことねぇよ」
顰めた表情も痛かったであろう力も不機嫌と取って首を傾げた陽子が、気丈になった碧の双眸の奥に消すことの出来ない不安と寂寥を滲ませた瞬間を見て、楽俊は即答した。
「相思相愛、だな」
黄昏の空にも散りばめた光を受ける庭に迷い込み、彷徨ってしまいそうな陽子の手を、小さな両手で包み込み、楽俊は微笑んだ。
「楽俊、大好きだ」
浮かんだ微かな孤独を埋めるように、もう一度きつく首筋にしがみつく。
楽俊の腕の中はどの安らぎよりも暖かさと優しさに包んでくれて、堪らなく嬉しいから陽子は素直に好きと言った。
「……おいらも、陽子が好きだ」
差し出された素直な好意に、目の前の友人が本当に愛しいと思う。
内心の葛藤を悟られないように不安を与えてしまわないように、微笑を崩さないまま、楽俊はきっと陽子の好きとは別の、好きを渡してしまった。
「夕食までには少しばかり時間があるようだし、ちょっくら庭を歩かねぇか?」
「うん、そうしよう!」
存分に楽俊の温もりを堪能した後、だいぶ歩きなれた庭を進んでいく。
陽子は目新しくもないだろうに、きょろきょろと辺りを見回し、新しい発見にしゃがんだり目まぐるしく動くけれど、繋いだ楽俊の手を決して離さなかった。
「楽俊、見て。夕日が綺麗だ! 凄いな」
「秋の夕日は、一段と綺麗だな」
雲海沿いに立ち止まって、眩しく落ちていく幻想色を眺めている陽子は昔より遥かに強くなった。月日の移り変わりに敏感になり、この日の夜を待たずに広い世界に夢を描いている。
きゅっと、無意識にだろうけれど、握り直してきた手は大きな夢に胸を震わせているのか刹那の感傷に人恋しくなったのか、楽俊にはわからないが握り返す。
強く、優しく。
それが我が侭だと言われても、陽子はまだ、自分と繋がっていると。
己を求めていると。
言い聞かせていると自分の名を呼ぶ声がした。
痛い、と。
すまねぇな、優しさに偽造していた欲に強まっていた力を緩める。
楽俊、好きだ。
ずっと友人でいてほしい。
呪文のような、孤独と寂寥と甘えを溶かした声音で呟く陽子に当たり前だと笑んでみせても、繋いだ手のひらから心の震えが聡い友人に伝わってしまわないか気が気ではなかった。
本当に手放せずにいるのは、己の方だというのに。