夕映えの道



 今日は厄日だ。
 そう思わずにはいられなかった。


 朝、普段よりも早く目が覚めたので庭園を歩いて戻ってきたところに、足元に激しく水をかけられた。
 見ると打ち水をしていたと思しき女官が、手に柄杓を持ったまま真っ青な顔で立ち尽くしていた。女は我に返ると、伏礼する勢いで謝罪をしようとしたのだが、相手をするのも面倒で、陽子は気にするなとだけ告げてその場を後にした。
 朝議に出るとなると、さすがに濡れたままでは不味かろうと思ったのだが、運の悪いことに着替えるほどの時間がなかった。思いのほか庭園で時間を過ごしていたらしい。仕方なしに手巾で拭い、部屋を出ようとしたら、迎えに来たらしい景麒に思い切り顔を顰められた。
 寒い中、酔狂でそうしているわけではないのに、何であんな顔をされなければならないのか。本当に気分が悪い。
 それから朝議に向かったのだが、足を動かす度にひやりとする感覚に機嫌が下降していくのを陽子は自分のことながら感じていた。
 後になって思えば、景麒に頼み半刻ばかり朝議を遅らせればよかったのだが、朝から続く運の悪い出来事に、どうも思考が停止していたようだ。
 そんなふうにして出た、なかなか進まない朝議の後、陽子の態度が気に障ったらしい景麒の小言にげんなりした。浩瀚が割って入っていなかったならば、もうしばらくは続いていただろう。
 加えて、来るはずだった楽俊が諸事情により不在であることに、陽子はますます気落ちした。
 ――どうして楽俊は、今日に限っていないのか。約束していたのに、どうして用事を断ってくれなかったのか。本当にひどい。こんなときに側にいてくれないなんて、楽俊は本道にひどい。
 などと、胸中で毒を吐きながら景麒の小言をやり過ごし、浩瀚のお蔭でその場を後にした頃には、昼を大きく回っていた。
 ――あぁ、しまった。今日は祥瓊と鈴と共に昼食を取るはずだったのに。
 慌てて部屋へ戻ったものの既に二人の姿はなく、待っていたけれど仕事があるので先に済ませたという内容の書き置きだけが残されていた。
 仕方なく近くにいた女官に粥を持ってくるように言い、訪れた執務室の椅子を引き寄せて腰掛けた。円卓の上で腕を組み額を寄せると、楽俊とするはずの、ずっと楽しみにしていたことが脳裏を過ぎり、落胆は深い溜め息となって吐き出された。
 陽子は、用意された昼食を慌しく済ませると、文字通り山のごとくに積み上げられた書類の決裁に取り組んだ。景麒が色々とあまりにも煩いので、浩瀚と遠甫が訪れた瞬間に瑛州侯としての仕事をしてこいと執務室から叩き出してやった。そのとき、浩瀚と遠甫が援護してくれたことに、胸のすくような思いがしたのは、気のせいではないだろう。
 半ば意地になり、一人で仕事を全て終わらせることができた頃には、陽が傾き世界が赤一色に染まる時間になっていた。
 今日の分は全て終わらせたものの何故だか食欲がなく、昼のように軽いものを用意してもらおうと思い、執務室の扉を開けた。視界いっぱいに広がるのは、人気のない薄暗い回廊。
 暗いとはいっても明かりはあるし、日が沈みかけているとはいえ、空はまだ明るい。しかし、寒く薄暗い回廊に陽子の気は削がれ、夕食など、もうどうでもいいような気持ちで、ゆっくりと足を進めた。

 ぶらぶらと庭を歩いていると、いつの間にか自室ではなく家の前にまで来ていた。
 無意識の行動に、思わず足が止まる。
 太陽が去り行く中、固く閉ざされた扉を見つめながら今日一日に起こった災難を思い返していると、不覚にも泣きそうになった。
 何でこんなときに限って、楽俊はいないのか。
 何でこんなときに限って、自分は一人なのか。
 こんなときに思い知らされる。この世界に、自分と血肉を分けあった者などいないのだと。
 何故、何で、どうして――。
 やり場の無い怒りと悲しみがこみ上げ、それを誤魔化すために皮膚が破れるほど強く拳を握り締めた、そのときだった。
「陽子?」
 聞き慣れた声に名を呼ばれ、何を思うこともなく振り返ると、そこには会いたくて会いたくて仕方がなかった青年がいた。
「こんな時間にどうした?」
 沈みいく太陽の残り火を背景に、楽俊は不思議そうな顔をしている。
 心配そうに近付いて来る楽俊の体からは、埃っぽい空気の匂いがした。その匂いに、今ここに楽俊が本当にいるのだと実感し、先程とは違う感情で、また涙が零れそうになった。
 それを悟られたくなくて俯いた頭に、大きな手がそっと置かれる。
「今夜中に来ることができるようになったから、と連絡を入れていたんだが――聞いてなかったみたいだな」
 楽俊は、顔を上げようとしない陽子の気持ちがわかるはずもない。
 わかるはずもないのに、何故かいつだって楽俊は陽子の望む言葉をくれる。
「もう大丈夫だ」
 何があったのか、どうしたのかなど尋ねず、ただそれだけを告げてくれる楽俊には、もしかしたら陽子の何もかもが見えているのかもしれない。
 この心がどれほど弱いのか。この体がどれほど目の前にいる男を恋い慕っているのかを。
「楽俊……」
 ようやくぽつりと口から出た言葉に、楽俊が小さく笑んだのがわかった。
 燃えるような光を背にしているからか、その背中越しの光が楽俊の歩いてきた道のように見え、悲しくもないのに何故かひどく泣きたくなった。
「もう、大丈夫だ」
 頬を撫でてくれる乾いた手は温かく、陽子は全てをゆだねるように瞳を閉じた。





あなたは私の安らぎ・・・ルピナス