こころの声
知るや君
こゝろもあらぬ秋鳥の
声にもれくる一ふしを
知るや君
深くも澄める朝潮の
底にかくるゝ真珠を
知るや君
あやめもしらぬやみの夜に
静にうごく星くずを
知るや君
まだ弾きも見ぬをとめごの
胸にひそめる琴の音を
知るや君
こゝろもあらぬ秋鳥の
声にもれくる一ふしを
知るや君
深くも澄める朝潮の
底にかくるゝ真珠を
知るや君
あやめもしらぬやみの夜に
静にうごく星くずを
知るや君
まだ弾きも見ぬをとめごの
胸にひそめる琴の音を
知るや君
恋とは人を変えるもの。
人を誰でも見苦しいものにしてみせる満たされない恋も、白痴にする満たされた恋も、同じく恋と呼ばれるものであり、また、一つとして同じものはない。
己の知らぬ己自身を知り、曝け出す己を嫌悪し、それでもその想いを抱き呼吸し生きていかねばならない。
捨て去ることができれば、どんなに平静に暮らせるだろうと思うことがある。そんなことなど決してできぬことを知りながらも、その瞬間に思うことは止められない。
苦しみ、もがき、醜い己自身を曝け出しながら、満たされぬ、けれど満たされる心とを抱き、今日も己を呼ぶ恋しい声に振り返ってしまうのだ。
「楽俊」
少女は何にも振り返らない。ただ真っ直ぐに向かい、息を切らせて駆けてくる。
「楽俊」
透き通った瞳の中に映っているのは己だけという事実に、底知れぬ優越感が満たされる。
「楽俊」
そして、思い知る。名を呼ばれるその度に、己の罪深さ。どこまでも貪欲に求め続ける、飢えた己を。
◆ ◆ ◆ ◆
寝台の上、ひどく沈んだ顔で背中を丸め、膝を抱えて座る陽子の傍らには楽俊の姿があった。
「楽俊。私はやっぱり王に向いていないと思うんだ」
「……珍しいな、そんな弱音を吐くなんて。何があった?」
「何かというか――」
楽俊の前で愚痴を口にすることは少なくなかった。それでも直接的なことを言うのは珍しく、陽子の甘えだと知りながらも楽俊は内心首を傾げた。
「失敗をしない人間などいないぞ。大事なのは、その失敗をどう生かすかだ」
「うん。私もそう思う。でも――失敗以前の問題なんだ」
陽子は自分の醜態を思い出し情けなさのあまりに顔を膝へと伏せてしまった。
声はくぐもってしまったが、それでも陽子は何があったのか、ぽつりぽつりと話し始めた。
陽子は桓魋から剣を中心とした対人戦闘の指南を受けている。それは実際に武器を使用してのことがほとんどで、手合わせの中でそれぞれの武器の間合いを知り、どう己に有利に戦いを展開するかを学ぶのである。それは楽俊だけでなく、周知の事実だ。
そこまでは問題ではない。問題なのは、それを賓満なしに行っていたということであり、それを景麒には知らせていなかったということだ。
そして先日、槍を手にした桓魋と手合わせをしていたとき、景麒の知るところとなってしまった。
剣の稽古の最中、景麒はその場に近付かない。陽子がそのようにさせた。賓満についても、冗祐についてもらってはいるものの、動かないよう命じていた。それも、景麒には知らせていなかった。
国政に関わること以外での小言を聞きたくなかったというのが、陽子の本音だ。しかし、その日は急務が入り、景麒はどうしても訓練中の陽子のもとへ行かなければならなかった。
その場に着いた景麒の目には賓満を使用せずに訓練をしていることなど、明らかだ。
隠していたそれらが曝されることになり、景麒からは小言どころではない苦言が文字通り雨のように与えられた。陽子も隠していたという負い目があり、また景麒からの小言も陽子自身を案じてのものと知っているからこそ、すまなかったと頭を下げて景麒の話を聞いていた。しかし、しばらくすると枝葉を広げ「そういえば、あのことも――」と、別件まで持ち出してきたため、それはこのこととは関係ないだろう。それにあのことは、と陽子もそれに応じた。
それが冷静な討論であれば、また問題はなかったのだが、お互いに冷静さを欠いた状態での言い争いとなってしまい、その場で喧嘩別れをしてしまったのだという。
それが昨日、夕方のことであるらしい。本日は陽子に与えられた休日であるため、そのとき以来、景麒とは顔を合わせていないことになる。
陽子には陽子の言い分があり、景麒には景麒の主張がある。それはどちらも正しいものであり、交わることなく平行線を辿ったようだった。
「天の導きであるにしても、私と景麒はあまりにもそりが合わな過ぎる。いつまでたっても平行線で、交わらない」
「……そんなことはないと思うけどな。陽子と景台輔は、確かに天によって半身と定められた。だが、最初からお互いを理解し合うなんてことは誰にだって無理だ。特に陽子と台輔は育った環境も、その常識も全く違う。それなのにすぐにお互いの隅々まで理解できたのなら、それこそ異常だとおいらは思うけどな」
「楽俊……」
楽俊の言葉に、陽子はようやく顔を上げた。
「互いに歩み寄って、ときには衝突しながらでも、そうすることで人の内面を知っていくもんじゃねえか。んで、よりよい半身となっていくもんじゃねえのかな」
手を伸ばし、陽子の頭を優しく撫でる。
「先を急ごうとしなくていい。ゆっくりでも一歩一歩、確実に進めばいい」
あまりの落胆に自分と景麒が反発する理由を探し始めた陽子を、楽俊は優しく嗜めた。
陽子は目を見開いた。逃げ腰になっていた己の心に気付いたのだろう。恥ずかしそうに表情を歪める。
「駄目だな。また逃げようとしていた」
「だけど、踏み留まっただろう」
「それは、楽俊が言ってくれたから」
憧憬の眼差しで陽子は楽俊を見上げてくる。その視線は温かく、柔らかな笑みを浮かべている。
まだ吹っ切ってはいないだろうが、今回の失敗を乗り越えたらしい。
雁から金波宮の家に入ったばかりの楽俊が見た、膝を抱え頑なに話そうとしなかったときに比べれば、だいぶ心も浮上したようだ。
「楽俊。私、頑張るから」
「ああ」
「見ていてほしい。楽俊が見ていてくれると思うと、もっと頑張れる気がするから」
楽俊は優しく微笑んで頷いた。
「多少の無理には目をつぶるけどな、無茶はするなよ」
再度頭を撫でられる感触に頬を僅かに上気させ、陽子は幼子のような笑みを浮かべた。よほど嬉しいのか、本当に珍しい、あどけない笑顔だった。
その姿に楽俊は目をさらに細める。
「あの、景麒のところに行ってきてもいいかな? 少し時間はかかるかもしれないけど――まずはちゃんと謝らなきゃいけないと思う」
「そうか。時間のことは心配するなよ? 明日もあるんだから」
「本当に?」
「ああ、そうだ。五日後までが休みだから、その前日の昼過ぎまではいられると思う」
休みがどれだけ取れるかわからないと先日話していたこともあってか、陽子は花が綻ぶように笑った。
「じゃあ、行ってくる!」
陽子は身を翻すような勢いで、そして、弾むようにして玄関から駆けだしていく。誰かにぶつからなければいいが、と案じつつ見送った楽俊の背中に声をかける者がいた。
「なあ、楽俊って性欲とかないのか?」
閉じられた扉に背を預け目を閉じ、一度大きく息をつく。
「……覗き見をしておいて、開口一番がそれなんですか? 延台輔」
声の聞こえた方へ振り向くと、悪戯小僧そのものの笑顔を浮かべた六太が立っていた。
気配に敏い陽子にしては珍しく全く感付いていなかったようだが、茂みよりほんの微かに見えた髪の色が見えたため、その存在には少し前から気付いていた。
「それで、さっきの言葉はどういう意味です?」
「だってさ、最近陽子綺麗になったとみたいで。それって恋してるせいだと思うんだけど」
「おいらにそんなことを言われても困るんですか」
閉じられた扉を開けないことで暗に家には上げないことを示しながら、困った声で応じる。
「わかってるくせに。あんな全力で縋られて何にも感じないって方が無理だよな。場所が場所なだけに、何も感じないって男としてどうかと思うぜ?」
使令でも潜ませていたのか、話をしていた場所も内容も筒抜けのようだ。口調は完全に面白がっており、暇つぶしにからかおうという魂胆でもあるのか。その年齢と反した姿であるため、達観したような話の内容とその容姿が合わず、楽俊は苦笑する。
誼がありいくら親しいからといって隣国の王宮で一人うろつくのはどうかと思う。陽子の言動からして、延麒の来訪を知らぬのだろう。また、こっそり忍びこんだのだろうか。
それにしても、随分即物的な考えだ、と楽俊は思う。
長い時を生きていても人としての欲望を抱いたことがなく、また、経験したことがないからか、延麒の言葉は知識の域を出ていないように感じられた。
肉欲を否定するわけではないが、それ以外にも欲の形は存在する。
「色欲だけが『欲』ではないでしょう」
「へ? どういう意味だ?」
「教えられて知るものではないですよ」
意趣返しにそう告げれば六太は口を山形に変え、邪魔したな、とだけ告げて空へ駆け上がる姿を、楽俊は微かに笑って見送った。
◆ ◆ ◆ ◆
欲ならある。
陽子が窮地に立たされて自分を頼ってくるたびに思うのだ。
自分がいなければ、何もできなくなるくらいに依存してしまえばいい。楽俊がいなければ息もできず、何も見えなくなるような、そんなふうに彼女を変えてしまいたい。
どろどろと蠢く醜い欲が、楽俊の内には確かにあるのだ。
「楽俊」
愛しい声に欲が疼く。それが苦しくもあり、また心地よくもある。
恋とは人を罪人に変えてしまうのだと、陽子に出会うまで知らなかった。
ならば、その責任を取ってもらおうなどと、くだらないことを考えながら寝台に寝転び、しばらくは戻らないだろう陽子を思い、目を閉じた。
きっと、明日は晴れるだろう。