幸福の条件



「陽子」
 静かな声は、夜も更けた時間帯だからだろうか。
 被衫で佇むその姿は、休むためだけのもの。肩に触れない程度に切られた髪が少しだけ風に揺れている。
 汚れのない清潔な衣服。きちんと着込まれているそれに乱れはない。横になることなく、陽子の帰りを待っていたのだろうか。
 ――対して、自分はどうだろう。
 砂埃や赤に汚れ、あちらこちらに綻びのある着物。斬られ破れている箇所もあり、手や顔にはきっと赤がこびり付いているだろう、年頃の娘とは思えない姿だった。
 しかし、月の光の届かない建物の影であることを陽子は心から感謝する。
 ――きっと、今の自分の格好は見えないはずだ。
 楽俊は日の光と共に生活していた。夜間に明かりを灯すことができるのは裕福の証だと語っていたことがある。よって、賓満をつけている陽子に比べ、楽俊は夜目が使えないだろう。
 血の匂いだけはどうしようもないと思う。こればかりは隠しようがなく、ただただ、出会った不運に唇を噛む。
 だが、ふと思う。
 夜陰に紛れて戻った陽子を、偶然目撃した楽俊。
 一言も発さない、月や星の光の届かぬ闇に、どうして自分であると気付いたのか。未だ声を発さぬ自分を、不自然には思わないのだろうか。
 見られている――視線を感じるが、楽俊は何も言わない。
 責めない、尋ねない。
 赤い匂いを携えた陽子を見つめるだけの静かな視線。
 陽子は楽俊に対して、どこか気まずいような申し訳ないような心情を覚えた。
 今の自分は血を浴びていて、心にはまだ争いの火が燻っていて、普段の自分ではない。まだ、戻れない。戦いは続いている。内に未だ宿る闘争の気配を、視線を伏せることで隠す。
 戦人でもある延であれば容易であろう、精神の素早い切り替えができるほどに、陽子は戦うことに慣れていない。特に人に対するそれには、未だ怯えがあった。おやすみの一言すら言えない。その場から立ち去るなど、まして動くことすらできなかった。
 ただ、沈黙。
 このまま立ち去れば後々、気まずい空気を作ってしまうと思うから、せめて気の利いた言葉を口にしたいと思うも、それすらできず、ただ、木偶の坊のように立ち尽くす。
 ただただ、楽俊に対して申し訳なく思う。こんな夜遅く、こんな自分に出会ってしまった楽俊の不幸を。
 静かに見つめてくる楽俊の穏やかな気配。
 待っているのだろうか、陽子の言葉を。もしくは、立ち去ることを。
「陽子」
 静かな声だった。まるで冬の深夜に水が一滴落とされるような、そんな静けさ。
 視線を上げることも、返事することも陽子にはできなかった。
「おかえり」
 はっと、顔を上げた先に見えた、ゆるりと笑みを浮かべる楽俊の顔。陽子はそれを、信じられないものを見たように、捉えてしまった。
 汚れた自分に、何もできない自分に。
 笑みを、言葉を。
「おかえり、陽子」
 もう一度繰り返された言葉に、胸の奥が熱を持つ。
 ――帰ってきた。生きて、帰ってこれたんだ。
 ようやく実感できた安堵感。しかし、それでも陽子は言葉を出すことはできなかった。口を開けば、己の定めた覚悟を揺るがす言葉を口にしてしまいそうで、泣いてしまいそうで、何より、血が移ってしまいそうで。
 手を伸ばし縋りつきたい。その温もりに救いを求めたい。そんな思いに駆られた陽子は、それを留めるようにぐっと手を握りしめた。伸ばすことはできない。伸ばせば汚してしまう。目の前の、楽俊を。
 綺麗な彼を。
 ――楽俊。
 ただ、食い入るように楽俊を見つめる陽子の目に水の膜が浮かぶ。それをきっと見えていないのだろうに楽俊は、どこか優しく、躊躇うことなく手を伸ばし――陽子の手に触れた。
「おかえり」
 もう一度繰り返された言葉に、陽子は楽俊の手の平が汚れてしまうことを知りながらも、温かな手を握り返した。
「――――ただいま、楽俊」

 自分にも彼にもいいわけがないこの一時を、不幸というのだろうか。
 柔らかな温もりを感じながら、陽子は幸せの意味を考えていた。






黄菖蒲・・・信じるものの幸福