美しい人
おいらは、陽子の右腕に触れられない。
陽子は、おいらの背中に触れようとはしない。
それはいつの間にかできあがってしまった、暗黙の了解。しかし、時折ひどく触れたくなってしまう。一種の自制でしかないそれを、簡単に打ち破ってしまいたくなるのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「……なあ」
「何?」
過ごすのか常となってしまった小さな家。それでも、二人で過ごすには十分な広さ。
下界よりも比較的穏やかな気候ではあるが、それでも夏本来の熱気はある。午後になり、ある一室で涼んでいたときだった。
きっと夕立でも来るのだろう。次第に濃くなっていく水の匂いに満たされた、空気。
団扇を動かす右手は止まり、陽子は問いかけと共に首を傾げる。幼子のようなその様に、楽俊は僅かに口元を綻ばせた。
ひどく幼い所作をすると思えば、花が香るような空気を醸し出す。そして、花が自分の前でだけ咲くのだと思うと、ぞくりとしたものを感じてしまう。
――愉悦、悦び、愛しさ。
一瞬にして、多種多様な感情を楽俊に抱かせる。それが陽子だった。
どちらかと言えば、楽俊は自分のことを、理性的で冷静。自制の利く性質だと思っていた。否、それは今でも変わらず、大抵の人間も楽俊のことをそう思っているだろう。
しかし、陽子が相手になると、途端に感情の制御が狂い始める。走る感情をどうにもできなくなってしまう。
それは何故か。
単純明確な答えしかない愚問が頭を過ぎるが、それには気付かないふりをする。そうして、また、楽俊は傲慢な我儘に支配されかけている。
「おいら、陽子の右手に触りてえな」
きょとん、と見開かれた目が幼い。しかし、次いで優しく笑んだそれはひどく大人びいていた。
僅かに醸し出される独特の気配は、紛れもなく戦いを知る者のそれ。そんな雰囲気を纏う陽子はとても強靭に思える。その内には様々な傷を抱え、未だ膿んでいるものもあるというのにもかかわらず。
――いっそ折れてしまえ。
決して望まない欲望を笑顔の下に隠しきる。
「別に、いいけど……」
そう言って、ゆっくりと差し伸べられる右の手の平。目の前に差し出された手を見つめた後、陽子の顔へと視線を動かす。
武人にとって命と等しく、極めて重要な利き手。普段なら決して触れられない領域を侵す、背徳と僅かな惑い。
その右手に触れたいのだと、はっきり言葉にして求めるのは初めてだった。無意識に握りしめることは今までにあった。それでも、手を繋ぐのはいつだって左の手の平だ。それはきっと、互いに理由があって、そして、その理由を胸の奥底に沈めているからだ。
しかし、求めたのは楽俊自身で、だからこそ、揺らいではいけないのだとわかっていた。
「色々荒れてて――触っても面白くないと思うけど」
どこか茶化す風情を見せる言葉に楽俊も小さく笑い、そっと、その右手に両手を伸ばした。
筆と剣でできただろう胼胝に荒れた肌。それは紛れもなく、働き生きる者の手。絶望しながらも、立ち上がることを止めなかった証。その手を引き上げ、そして引き上げられて、自分は今ここにいるのだとそう思った瞬間、胸の内に湧き上がったのは喜びだった。
それは間違いようもない、感謝の念。生きることを、投げ出さずにこれたことへの。
きっと、陽子はそんなことを知るはずもなく。だからこそ、できる限りの慈しみをもって、その右手に、ずっと触れてみたかった。
「……楽俊も、胼胝だらけだね」
「おいらのは、筆でできたものだけどな」
「楽俊の歴史だね」
――今まで積み上げてきたものの証なんだね。
続けられた言葉の温もりに、ゆっくりと視線を上げれば、無邪気な笑顔が迎えてくれた。
本当の幼子のような満面の、嬉しそうなそれに愛しさが募り、楽俊は再度、陽子の右手に視線を移し、僅かに力を込めて、願う。
――どうかこの右手が、いつまでも王のものであるように。そして、陽子の欲しいものを掴み続けられるように。陽子が大切だと思うものを、零さずにいられるように。
途方もないなんて思わない。叶わないなんて思えない。実現しない祈りを、誰とも知れぬ存在に捧げられるほど、楽俊に余裕などない。
だからきっと、この願いは必ず成就してくれるのだろうと、そんなどこか漠然とした確信を、楽俊は持っていた。
「おいら、陽子の右手が好きだな」
勿論、好きなのはそれだけじゃないけれど。
唐突に言い放たれた告白に、陽子の顔は可哀想なほどに真っ赤に染まり、しばらくの沈黙の後、「うん」と一言の返事で、その全てを受け入れた。
繋がったままの右手もそのままに交わした口付けは、きっと喜びに溢れていた。