美しい人
露の草原
裸足でゆけば、
足があをあを染まるよな。
草のにほいもうつるよな。
草になるまで
あるいてゆけば、
私のおかほはうつくしい、
お花になつて、咲くだろう。
「草原/金子みすず」
◆ ◆ ◆ ◆
「お前の手、段々兵士みたいになってきたな」
口を大きく開けて笑いかけた大僕の言葉には、何の含みもなかった。ただ事実だけを述べ、そして、剣を飾りではなく、自身の力で使えるようになってきたことへの賞賛に近い言葉。
しかし、陽子は浮かべた笑みが歪んではいないかと自身で案じるほどに、上手く笑うことができなかった。
次第に上がる剣の腕に反比例して傷の増える手の平、荒れる指先。それが、女性としての劣等感を募らせていることを告げることができぬまま、陽子はそっと溜め息をついた。
晴れた雲一つない青空に、手を翳す。日差しが眩しかったわけではない。
逆光で黒く反射する陽子の指先は、大僕の言った通り、太くはないが傷だらけで、華奢で細い女らしいとは言い難い武骨な手だと、自分でも思う。それは紛れもない事実だが、傷付かなかったわけではない。
剣を握ることを選んだのは自分自身で、間違いだと思ったことはない。それでも、一人の女性として、溜め息をつきたくなることは多い。
華美な装飾は好まない。女らしさを表に出したくない。今の陽子にそんな余裕はない。それは事実。けれど、惹かれないのか、と問われれば否と答えてしまうこともまた、事実なのだ。
剣を振るう陽子であっても、年頃の娘。指輪を必要ではないから、好きではないから嵌めないのと、指が指輪に釣り合わないから嵌めないのとでは、大きく異なる。
荒れて剣胼胝もある、爪に色も塗っていない指先は、やはり可愛げの欠片もない。
「何をしているの、陽子?」
「……ああ、祥瓊か」
後ろから声を掛けられ、陽子は日に翳したままだった手の平を慌てて下ろし、何でもないと笑ってみせた。
「それよりどうした? 何かあった?」
「そうじゃないわ。先程、遠甫にお会いしたときに、陽子に渡してほしいって預かったものがあって」
「遠甫から?」
「ええ。何でも、草案の参考になるだろうって」
どうぞ、と言って包みを差し出した祥瓊の手に、陽子の目は吸い寄せられた。
華奢で白く、爪にだってきっと何も塗っていないだろうにもかかわらず、とても綺麗な桜色をしていた。
――私のものとは違う、女性の手。
包みを受け取るために差し出した両手を僅かに躊躇した陽子に、「陽子?」と、不思議そうに祥瓊が小首を傾げる。
「……何でもない」
すまない、と巻物三巻を受け取り、「祥瓊の手が綺麗だったから見惚れただけだ」と誤魔化した。
あながち間違いではないそれに、祥瓊は僅かに頬を染めた。
「そんなことないわよ。こう見えて荒れてるんだから。まあ、手入れを怠ってはいないけど」
苦笑交じりの笑みを浮かべ、祥瓊は否定の言葉を口にするが、手の甲や白く細い指に陽子のような傷や荒れは何一つ見受けられなかった。
「そう? 私のような傷なんかは見られないけど。……祥瓊の指は長くて華奢だから、きっと指輪が似合うだろうね」
思わず口にしてしまった言葉に、ああ、卑屈なことを言ってしまったと陽子は自己嫌悪で祥瓊の顔が見れなかった。
反対に、祥瓊は陽子の言葉に目を瞬かせ、すっと細めた。
「そう、思われても仕方ないのかもしれないけど――それでも私は、働く手であることを望むわ」
それは、陽子にとって、思いがけない一言に、顔を上げる。祥瓊はどこか自嘲するような、苦笑のような笑みを浮かべて陽子を見ていた。
「楽俊に出会って、あの乱の中で学んだことよ。陽子の目に私の手は傷一つ、ついていないように見えるけれど、公主であった私から言わせると傷だらけの手なのよね。陽子が私の手を綺麗だと言えるのは、本当に働く人達の、その働きの証である手を見たことがあるからよ」
そして、と祥瓊は続ける。柔らかな笑みを浮かべ、陽子の空いた左手を両手でそっと包む。
――それは、誇るべきことなのよ。
祥瓊の言葉と微笑みに、自分の内にあった氷塊がじわりと溶けていくのを感じた。
こだわり続けていたのは、きっと己の迷いであり、そして女性らしい人物――たまたま近くにいた祥瓊への嫉妬。それをわかっていても認めたくない、そんな気持ちで拗ねていたのだ。子どものように。
祥瓊のおかげで気付かされ、陽子は大きく息を吐いた。
――まだまだ、だな。
同じ年頃の姿をしているのに、やはり自分よりも年上なのだということ――自分が歳下で幼い部分があるのだということを思い知らされる。
そこでふと、自分が口にしたことで祥瓊を傷付けてしまったのではないか、と思い至る。瘡蓋を剥がすような行為ではなかったかと。
しかし、それを謝罪するというのも違うような気がして、陽子の唇は言葉を上手く紡げずにいた。それでも、何度目かの逡巡の後に口を開いた。
「――祥瓊。お願いがあるんだ」
「なあに、改まった言い方をして」
「うん、ええっと……手入れの仕方を、教えてほしいんだ」
「手入れって――手の?」
「うん」
僅かに目を見開き、そしてゆっくりと祥瓊は微笑んだ。
「仕方ないわねえ……教えてあげるわ。陽子がどうしても、って言うなら」
いつぞやのやり取りを彷彿とさせるには十分な言い回しに、思わず二人して顔を見合わせ笑う。
「どうしても」
そうして二人は並んで、回廊を歩いていく。
少女らしい、華やかで美しい笑顔を浮かべながら。
◆ ◆ ◆ ◆
――本当は。
誰に何を言われようとも、剣胼胝のあるおよそ女らしいとは言えぬ自分の手に、少なからず陽子は自信と誇りを持っていた。
――綺麗な手のままでは、王として起つことはできなかった。
剣を持つことでしか、道は切り開けなかった。それは、陽子だからこそだったのかもしれず、別の人物であれば、違ったやり方があったのかもしれない。
しかし、自分の意思で決めたことだった。自らで選んだ道だった。荒れた手は、その道を歩いてきた証でもあった。
以前したように、陽子は空に向かって手を翳す。
武骨で何の飾り気もない手を、改めて愛おしいと陽子は思った。