やさしい嵐
――さぁ……。
遠くで柔らかな水の音が聞こえる。
夢現の意識の中、陽子はその音に耳を傾けた。
不規則でありながらも、どこか整然とした音はやがて変化していく。
――ざぁ……。ざぁ……。
意味をなさない雑音に似たそれが、鼓膜を打つようになる頃には、陽子の意識も浮上し始め、音に導かれるようにのそりと起き上がった。
浮上したとはいえ完全に目覚めていはいない陽子にとって、温かい牀から出ることはとても億劫なことだったが、それでも予定していた外出を思うことで何とか手足を動かした。
陽子は僅かに体を揺らしながら、けれど、体を滑らせるように衾褥から抜け出す。
しかし、
「ん……」
不意に聞こたくぐもった声に、体の動きを止めた。
首をゆっくりと巡らせば、隣で眠っている楽俊が身動ぎしたようだった。部屋から夜の暗さが引いていくのを感じて眠りが浅くなっているのか、体を動かしては安定する場所を探しているようだった。
体を丸めるその姿はまるで、幼子のようで。
――楽俊が子供みたいで……何だか変な感じだ。
くすりと笑うと、陽子は楽俊を起こさないよう注意深く足音を忍ばせ、窓へと近寄った。
光を遮るように幾重にも重ねた幕をなるべく音を立てずにそうっと動かし、玻璃の窓へと手を伸ばした。
すると伝わってくる、振動。
――雨だ。
小さく息を呑み窓を押し開くと、ほんの僅かな隙間から横殴りの雨が侵入してくる。風の抵抗にあいながら閉じると、吐き出す息は溜め息になってしまった。
――これでは、今日の散歩は無理だろう。
目が覚めたら、外が雨になっているなんて思いもしなかった。
僅かに肩を落とした陽子に、それはそっと声をかける
「残念だったな、陽子」
「……っ!」
突然、背後から、しかも耳元へ寄せられた声に、陽子は体を震わせた。寝ているものだとばかり思っていた楽俊が、すぐ後ろに立っていたのだ。
楽俊はその腕を伸ばして陽子の腰に絡めると、顎を陽子の頭に預け、窓の外を見やる
「めずらしいな、こんな雨は」
「……起きたのなら、声をかけてくればいいのに」
引き寄せられるままに体を預け、陽子は窓越しに楽俊をじとりと睨めつけた。
「悪かったな」
そうして苦笑する様が体から伝わってくると、諦めたように息を吐き、陽子は再び窓へと手を伸ばした。
玻璃は規則的な雨によって打ち鳴らされており、雨脚の強さを陽子に伝えてくる。
「紫陽花がね、綺麗に咲いていたんだ」
名残惜しそうな声に楽俊は視線を下げて赤い髪に口付けを一つ落とすと、腕を背中と膝裏に回しそのまま陽子を抱え上げた。
赤の髪がふわりと広がって楽俊の頬をくすぐり、すぐに碧玉の双眸と視線が合う。
「……楽俊?」
「何だ?」
「どうしたんだ?」
「まぁ、いいから」
にこにこと笑いながら牀へ戻る楽俊に、陽子は首を傾げながらもいいように運ばれていた。
「ねぇ、らくしゅ……っ!」
牀へと腰掛けた楽俊に再び声をかけようとした陽子は、すっと息を呑んだ、
どさりと大きめの音をたて、二人で後ろへと倒れこんだのだ。虚を突かれた陽子は、動くことができずに、ぱちりぱちりと瞬きを繰り返す。
楽俊はというと、そのまま衾褥へと戻り始める。勿論、その腕は陽子を抱えたままだ。
「ら、楽俊?」
「んー? どうした?」
「どうした、じゃなくて、一体何を――わ!」
視界がぐらりとぶれて、陽子は小さな声をあげる。楽俊が抱えていた陽子を横へ転がしたのだ。
「だから、何を――?」
楽俊は、陽子の抗議に答える様子もなく、再び抱き寄せた体を胸の中に収めてしまうと、その柔らかな首筋に鼻を埋めた。
鼻先や唇が肌に触れるくすぐったさに陽子は身を捩るが、それでも回された腕の力は抜けなかった。
仕方なく抗う力を抜き、その髪に手を伸ばす。
「楽俊?」
その体勢のまま、楽俊は動こうとしない。
「楽俊!」
咎めるようにその名を呼んでも力が緩まる気配はなく、むしろますます拘束は強くなる。陽子は困惑して抗ったが首元に口付けられ、あっさりとそれは封じられてしまう。
「……そろそろ起きないと、駄目じゃないのかな?」
あやうく流されそうになったが、朱に染まった頬もそのままに顔を上げ、いっこうに自分を解放してくれない男を軽く睨む。
緑の真っ直ぐな光が楽俊を貫いたが、意に介した様子もなく楽俊は口を開いた。
「まぁ、たまにはいいだろう? こういう日があっても」
「え?」
不思議そうな表情を浮かべる陽子に、楽俊は笑った。
二人の時間でふと見せる、普段からは考えられない幼さが、自分だけに許された特権なのだと嬉しくなる。
楽俊は、胼胝のできた指を柔らかな頬に滑らせ、緑の双眸を覗き込むように言った。
「最近、忙しかったんだろう? だから、たまにはこうやって、何もしないで一日過ごすのもいいんじゃねぇかって思ったんだ」
「……でも、せっかく楽俊が来てくれてるのに」
陽子は拗ねた表情を浮かべ、額を楽俊の胸に押しつける。
「おいらとこうしているのは嫌か?」
「……」
――その言い方は卑怯だ。と、陽子は思う。
そんなふうに言われてしまえば、嫌だなんて拒めなくなる。
――あぁ、本当に楽俊は卑怯だ。
一日中楽俊の側にいられることに、異を唱えることなどできはしない。
――そんなことできはしないと、知っているくせに。
陽子は返事の代わりに抱きつき、その両腕に力を込める。
「あ、拗ねた」
「拗ねてなんかない!」
茶化すような楽俊の口調に反射的に答え、陽子はさらに力を込めた。僅かに顔を顰めつつも、楽俊の口元には笑みが浮かぶ。
楽俊は腕を伸ばし、陽子の頭を撫でる――優しい仕草で。
「……楽俊?」
「陽子」
名を呼ばれ素直に閉じた瞼の上、薄い皮膚に寄せられた柔らかい感触に陶然としていると、愛しい温もりは唇へと降りてきた。
ゆっくりと確かめるようにこちらへと入り込む熱に、呼吸ごと攫われて、陽子は苦しさと心地よさに溺れる。
陽子は背筋を震わせて、楽俊にしがみついた。
長くも短いその後に、陽子が額を楽俊の胸に預けて息を整えている間、楽俊は愛しげに微笑んでいた。
陽子からはその顔が見えないというのに、余裕ある雰囲気が何だか悔しくて、陽子はそのまま額をぐいぐいと擦りつける。
幼くも思える照れ隠しに、楽俊は腕の中の少女を抱きしめた。
薄手の布をとおして、高めの体温が楽俊の肌に伝わり、それはとても――。
「……楽俊?」
「うん」
「あの、苦しいんだが」
「うん」
「離しては、くれないのか?」
「駄目」
何故、と問いかける小さな体に、楽俊は囁くように答えた。
「離れたくないから。こうしているのは嫌じゃないって、陽子も思ってくれているんだろう?」
含みのある声が面白くなくて、陽子は抗議の声を上げた。
「それは、揚げ足取りだ」
「じゃあ、嫌か?」
「そんなこと――あるはずない!」
――あぁ、もう、楽俊は本当にずるい。
そんなことを言われたら、否定してしまうではないか。
一緒にいたいと、離れたくないと願うから。
陽子は憮然として、けれど嬉しさを隠すことはできず、朱に染まった顔をその胸にすり寄せた。
柔らかなその仕草が猫のようだと胸中で呟いて、楽俊は幸せそうに陽子を抱きしめた。
外は、変わらぬ雨模様。
初夏の嵐に感謝の意を捧げて、二人は笑いながら一日を過ごした。
こんな雨の日も、たまにはいいのかもしれない。