恋する惑星



 課題の論文作成のため、資料蒐集に奔走していた楽俊に、嬉しい知らせが舞い込んできた。
 陽子からの、慶国太師である遠甫が楽俊の欲していた中で最も古い書物を所有しており、その古さゆえ貸し出すことはできないけれど、写しに来ないか、という誘いだった。
 勿論、すぐに承諾の返事を託し、空へと鸞を放った。
 そして、例の如く突然現われた六太の好意に甘え、たまに乗って金波宮に向かったのだが、楽俊を待っていたのは、何故か乱れに乱れた官服姿の陽子だった。しかも何故か、先日の子猫の首根っこをしっかりと掴んでいる。
 官服だけでなく髪の毛もぼさぼさで、息も荒く、膝辺りには泥すらついている陽子に唖然としながらも、楽俊は自ら羽織っていた上着の肩にかけた。
「風邪を引いちまうぞ」
 雨が降ったせいで下がった気温と動き回ったことでうっすら汗をかいた体のことを考えて、多少の躊躇はあるものの陽子は素直に好意を受け入れる。
 陽子は、一瞬の躊躇の後に襟元を直してくれた大きな手の熱さに僅かばかり身震いすると、己のあられもない格好に今になって赤面した。
 そして、ちょうどそこに茶器を持った祥瓊が現われ、楽俊同様に陽子の姿に唖然としたが、すぐに着替えさせるために陽子を引き摺りながら退出していった。


 着替えから戻った陽子を微笑みで向かい入れ、祥瓊の入れてくれたお茶で体を温める。 
「……温かい」
 膝元で丸まる子猫の温度と、じわじわと体を流れる温もりの心地よさに、陽子の唇から知らず細く長い息が流れ出た。
 一息ついたところを見計らい、楽俊は茶器を置いた。
「で、何があったんだ?」
 単刀直入な問いかけに言葉を詰まらせ、どう言い訳しようかと悩んでいるのが明白なほどに、その緑の双眸が宙を彷徨う。
「その、子猫が木から降りれなくなって、それで――」
「膝を泥で汚して、猫の首根っこ掴んでか?」
 木の汚れがついたというには陽子の膝元は汚れすぎていたし、木から降りれなくなった子猫を保護したのならば、仕置きをするように首を掴むのはおかしい。
 真っ直ぐに見つめてくる楽俊の視線に耐えかねたように、陽子はぽつりぽつりと話し始めた。
「猫が、紐にじゃれついてきて、取り返そうとしたら銜えて逃げて……だから、追いかけて……そうしたら、それが遊びだと思ったのか、猫は色んなところに逃げてしまって……」
「で、おいらが来た頃にようやく捕まえたってところか?」
 陽子はこくりと頷き、手に隠し持っていたそれを差し出した。
「紐――駄目になってしまった。本当にごめん」
 それは、先日楽俊が陽子に送った組み紐であった。
 顔を上げることができずに伏せた視線の先には、砂や泥に塗れた組み紐がある。
 糸と糸との隙間に入り込んだ泥が、陽子の胸をさらに締めつけた。
 差し出された紐を手にすると、楽俊は検分するかのように視線を巡らせる。
「……紐自体は綺麗に洗えば、汚れは落ちるからな。片方にひびが入っちまったみたいだけど、また新しいものに替えれば大丈夫だ」
 汚れは落ちると聞いて胸を撫で下ろしつつも、硝子玉のことを耳にした途端、陽子の顔が歪む。
「……私は、それがよかったんだ」
「陽子はもっといいものを沢山持ってるだろうに」
「……だって、それは、――それは、……だ」
 口を尖らせて苦々しげに言う姿は、駄々をこねる子供のようにも見える。あまりに弱い呟きに、首を傾げることで先を促した。
「……楽俊がくれたものだ」
 今度は拗ねたように。
 そんなことも忘れたのか、と言わんばかりにつんと顔を背け、陽子は楽俊と視線を合わせようとしない。
 楽俊にももしや、という予感はあった。だが本当にそうだとは思わなかった。そして、今この場で少女が口にするとも。
「……陽子」
 声が心なしか上ずった気がした。
 名を呼ばれ、陽子の肩が僅かに揺れる。
「陽子」
 もう一度しっかりと確かめるように呼ぶと、横を向けていた顔を陽子はゆっくりと動かし、楽俊へと向き直った。
 楽俊を見返す姿はどこか心細げで、彼女が未だ少女であることを思い出させる。
「一つ無事なら、それで十分だ」
 楽俊の指が、組み紐ををじっと見つめる陽子の右の手の甲を取って撫でた。
 抱きしめるような、宥めるような声だった。
 くしゃりと陽子の顔が泣くように歪んで、けれども口元には笑みが浮かぶ。
「……うん。そう、だね。そうだった」
 楽俊から組み紐を受け取り、ごそごそと遊びたそうに動く子猫を床へ下ろすと、陽子はひびの入った硝子玉へと目を向けた。
 掌の玻璃は光を受けて、夏の空の欠片が一滴降ってきたような色をしている。
 陽子の心象を現しているかのような色に、できすぎだなと、陽子は笑みを深めた。
「それに……おいらは陽子が望むなら何度でも、差し出すぞ」
 わざとだとか、慰めだとか、そういうのは関係ない。だからこそ、たちが悪い。
 あくまで真面目に正面から告げられ、陽子は目を見開いて楽俊を見つめ返した。
「かたちあるものは、いつかは壊れちまうもんだ。だから、それまで大切にすればいい」
 それに、と楽俊は続ける。
「百回壊れても、百回差し出すから、心配しなくていいぞ」
 微笑みながらの台詞に、どんどんと鉄瓶の湯が沸騰するように自分の体温が上がっていくのを感じながら、陽子は半ば呆然としていた。


◆  ◆  ◆  ◆



 楽俊が与えてくれるものは、形のあるなしに関わらず、言葉にできないほど本当に大切なもの、確かなもので、差し出されるときに、少し不安になる。
 自分は楽俊に与えられるだけの存在なのか、と自問する。己が問いかけに答えは出ず、それでも、差し出されたものに手を伸ばしてしまう自分の浅ましさが、陽子は嫌いだった。きっと、楽俊は陽子の浅ましさをも優しく照らしてくれるのだろうけれど。
 自らの浅ましさを嫌悪しながらも、それでも陽子は、与えられるだけの存在でいたくなかった。
 自分も、楽俊にとって与える人でありたいと、そう思いながらも、自分にできることなど限られていて、今回のように物を与えることしかできない。
 物だけではなく、本当は楽俊に何でも全部差し出したい。何でもしてあげたい。
 
 そこまで考えが行き着いて、陽子は苦笑した。
 王としての自分の生活は国政が中心をなしている。
 けれど――。


◆  ◆  ◆  ◆



「楽俊」
「何だ?」
「ありがとう、楽俊」
「……?」
「何でもない。ただ、言いたくなったんだ。とても、嬉しかったから」
「……そうか」
「うん」
「どういたしまして」





桔梗・・・優しい温かさ