恋人たちの森
さくり、と不揃いに生え揃っている雑草を踏む柔らかな音に、陽子の瞼が僅かに動く。
誰も近付くことを許していない静かな場所に、現れた気配に陽子は驚くこともなく、ありのままを受け入れた。
侵入者ではない。王が半身やその使令でもない。友人や臣下のものでもない。
その気配は、陽子が誰よりも信頼し、そして恋い慕う人物のもの。
さくり、さくり。
音は止まず、こちらへ向かうその人の居場所を教えてくる。
そんな素振りは見せないが、その気になれば足音一つ立てずに陽子のすぐ側までたどり着けるであろうに、足音を立ててここまで来ようとする彼を、陽子は律儀だと思う。
そして、まるで知らしめているようだ、とも。
――今ここに向かっているという事実を。
勿論、彼の向かう先が陽子ではない可能性もある。しかし、そうではないことを陽子はきちんと理解している。
彼は、ここに――陽子のもとへと向かっているのだ。
それをわかっているのに、いや、わかっているからこそ陽子は動かない。迎えないし、振り返ろうともしない。
ただ僅かに忍び笑いを口元に浮かべた。
知らない振りを、気付かない振りをしているだけだというのに、何故こんなにもいたずらをしている気分になるのだろう。そうして自分が、ただ振りをしているだけだと気付いているであろう彼は、本当にたどり着くまで声一つかけてこないつもりなのか。
やはり抑え切れない笑みを、背中を向けていることをいいことに口元にまた浮かべれば、気が逸れていたのだろうか。すぐそばまで来ていた気配が歩みを止めた。
こん。
体を預けるそれを通じ、全身へと振動が伝わってくる。
「陽子」
ただ一言。
陽子がまどろんでいた木の枝を見上げて、太い幹を一度だけ指の関節で叩いた。
平然とした声音に、応ずる声が笑みを含んでしまう。
「楽俊」
身を乗り出すように見下ろせば、柔らかな微笑を浮かべた恋人がこちらを見ている。
陽子を真っ直ぐに見つめていた。
「探させてしまったかな?」
何とはなしに言えば、
「いや」
と、すげなく返される。
それほどに自分はよくここに通っていただろうか。そして、楽俊はそれを知っていたのだろうか。
一瞬そんなことを考えて、視線が下方にいる彼から逸れるとすぐに、「陽子」と再度名を呼ばれ、引き戻される。
「何?」
「戻るぞ」
簡潔に言って踵を返し、今度は来た方に向かって歩いて行ってしまうその後姿を見ながら、陽子はまた口元を緩める。
「うん」
誤魔化すように咳を一つして、ひらりと地面に降り立つ。音をたてない仕業もできたが、やはりわざと、草を踏む音、地面を歩む音を隠さなかった。
陽子は早足で、それでも駆けることなく楽俊の後ろに並ぶ。
すぐに近付いた陽子の気配に楽俊がどういう表情をしたのかを、後ろにいる陽子は見ることができないが、それは先程まで木の上にいた陽子の表情にしても同じことだろう。
「楽俊」
特に振り返ってほしいとも思わずに、陽子がその名を呼べば、
「何だ?」
意外にもわざわざ立ち止まり、後ろを向いた楽俊に面食らう。
目を大きく開いた陽子の表情がおかしかったのか滑稽だったのかはわからないが、僅かに口元を緩ませた楽俊に、陽子も笑った。
陽光に透ける新緑が、地面に美しい光と影を描く木立の中。
肩を並べて歩き始めた二人の姿は美しく、ただ穏やかなときの流れを映していた。