黄昏に瞳やさしく
執務に追われる一日は時間が恐ろしいほどに早く過ぎ、ふと顔を上げれば、それまで気付かなかった赤い悪魔がこちらを覗き込む。
ただ一色に世界が染め上がる。
それどころか、今日は一段と濃く深く色付いているようで、まるで――燃えているよう。
空も、大地も、世界の何もかもが、どこまでも、どこまでも、果てしなく一面の赤。
赤。その一色が世界を支配する。
あまりの光景に眩暈がしそうだった。背中から首筋に怖気立つ。見慣れた光景であるにもかかわらず、おぞましさは抜けない。いつまでも、追ってくる。
――早く帰りたい。
夕暮れ時だからだろうか。不意にそんな思いが湧き上がる。
帰りたいのに、足が動かない。
――帰る?
一体どこへ。自分には、望み帰る場所など、もうない。
――怖い。
呑み込まれる。赤い世界に全てが、心までが塗り潰されてしまう。
赤に――血の色に。
両手が。
剣から滴り落ちる、その命の欠片。
――逃げなくては。
逃げる場所などないのに?
「陽子?」
「――っ!」
呼ぶ声に振り返ると、今日の夜に会うはずの青年の姿。
「……楽俊? どうしたの、約束の時間はまだ――」
「ちっとばかし早いがな。お許しを頂いたんで、迎えに来た」
「え?」
「何だか心配になってな」
「……心配って――もう、ここで迷子にならないくらいには覚えてるよ」
幼子を案ずるような物言いに思わず苦笑が零れる。
即位したばかりの頃は、どこに何があり誰に尋ねればよいのかさえわからなかった。今では、抜け道まで見つけてしまっている。王宮内で迷うことは、もうないだろう。
「うん……まぁ、いいじゃないか」
その自覚があったのか、楽俊は照れたように頬をかいた。
「迎えに来たかったんだ」
「――」
「帰ろう、陽子」
そう言って差し出される手の平。柔らかい色を浮かべる瞳。
当然と言わんばかりに、その手はいつだって自分へと差し伸べられてきた。何の迷いもなく、真っ直ぐに。それはきっと、これからも変わらないことであるのだという漠然とした確信があった。その手の平は、どんなときでも陽子を導いてくれる。
今日も差し出されたその手の平を恐る恐る取れば、他人である温もりが確かに伝わり、何故だか鼻の奥が痛くなった。
「どうした。顔、赤いぞ」
「……夕日のせいだよ」
「そうか?」
「そう、だよ」
「ああ、確かに真っ赤だなぁ」
「赤いのは――苦手かな」
「自分の髪の色なのにか?」
「……うん」
「そうか」
それ以上問うことをせず、楽俊は微笑み手を引いた。その力に促されるように、陽子は並んで歩きだす。
隣を歩く彼の姿は全て夕日に染まり、周りの景色と同じ色をしている。自分もまた、同じ色に染まっているのだろうと胸の奥に痛みが走る。しかし、陽子の手を包む楽俊の手が大きくて心地よく、全てを包み込んでいてくれるような気さえする。
陽子の手を握る楽俊の手が、少し強くなった気がした。
「明日もまた晴れそうだなぁ」
「そうだね」
晴れたなら、また夕日が自分を覆ってしまう。
そうしたら、また迎えに来て手を繋いでくれるだろうか。そして、あの色に取り込まれる前に、その手で包んでくれるのだろうか。
詮無きこととは思いつつ、陽子もほんの少しだけ繋いだ手に力を込めた。
「明日はどこへ行こうか」
影に潜めた護衛をつけてではあるが、街へ下りる許可を堅物の半身からもぎ取った。久し振りに王宮から出ることができる。
「……小間物屋に行きたい」
「うん、そうか。じゃあ、昼食は下でとろうか」
回廊に伸びた影はどこまでも、どこまでも長く。
繋いだ手はどこまでも、どこまでも温かい。
「うん」
赤い、夕日が嫌いだ。
その色は流れた血を思い出させる。己の手によって流された血を。そして、その色に塗れた化け物と等しき自分の姿を。
陽子にとって赤とは血の色であり、己が罪の象徴にも思える色であった。けれど、楽俊の顔を照らす朱色は美しく、このときは何故かひどく綺麗に見えた。
◆ ◆ ◆ ◆
部屋の窓から空を見上げると、ほんの少しばかり欠けた月がぽっかりと浮かんでいる。
二人で過ごすにはちょうどよい部屋も、一人きりだと広く思われた。
目を閉じ牀の上で横になると、家の中にある楽俊の気配が感じられる。孤独すら感じてしまう空間にある他者の温かな温もりに、陽子はひどく安堵した。
瞼を開けると、日を追うごとに冷たくなってきた夜風が陽子の髪を揺らす。視界に入るように流れてきた髪が煩わしく、かき上げると髪の上で月の光がするりと滑った。
月明かりの下、鈍く光る赤の髪。
その様子が目に留まり、無意識に眉間に皺が寄る。自分で一房、摘み上げてみる。毛先まで赤一色である己の髪。今まで大して思い入れもなかった。どちらかといえば、苦手意識すら持っていた。こちらにきて鮮明になった赤の色。
その色が自身の罪を表しているようで、逃げ出したくなり、時折、切り捨ててしまいたい衝動に駆られるときもあった。それでもそうしなかったのは、ひとえに彼の一言があったからだ。
名前を呼ばれて仰ぎ見た先にあった、細められた目。躊躇いなくこちらに伸ばされた右手。
瞳に浮かんだ甘い色を目の当たりにして金縛りにあったように動けない陽子の驚愕を置き去りに、楽俊は陽子の髪に触れた。
まるでお伽噺の魔法使いのように様々なことを示してくれる指先が、自分の髪を掬い上げるのを見て陽子は瞬きすることも忘れて立ちつくす。
「綺麗な髪だな」
楽俊はそっと目を伏せ、恭しく陽子の髪に唇を寄せた。
触れたかどうかなどわからないはずだ。にもかかわらず、髪に神経が通っていたかと錯覚してしまうほど、背筋を震えるような感覚がじわじわと這い上がった。目の前で起こっていることが信じがたく、その口元を凝視していた陽子は、ふとあげられた視線に射抜かれ狼狽した。
いつもは自分が見上げなければ合わない視線が、無遠慮に絡められる。
頬が熱くなり、何か言わなければと焦って口を開いても、意味をなす言葉が出ることはない。ただ喘ぐ様に唇を開いた陽子に、楽俊は口の端を僅かに引き上げ微笑んだ。
「陽子」
その声に怯えたように身を震わせた少女を見ると、彼はあっさりと陽子から手を離した。訳もわからず目を見開いて見上げた視線の先で、楽俊はいつものように優しく頬を弛めた。
――よかった。
呆然としたまま、しかし、頭の片隅で安堵の息をつく自分がいた。何がよかったのか、何に安堵しているのか、何から逃れられたのか。それさえもわからず陽子は見上げ続けた。
ぽんぽんと頭の上に手が置かれ、いつものように無造作に撫でられる。楽俊は何も言わず、謝ることもなく、「おやすみ」と笑った。
空を見上げると、少し欠けた月が物言いたげに浮かんでいた。
――ああ、あれは春のことだった。
あのときに見上げた月は輪郭が柔らかな朧月だったが、今は鋭い刃のような縁を見せている。まだ二年ほど前の出来事であるというのに、随分と昔のようにも思えた。髪を切ろうとする衝動がなくなったのは、楽俊の一言があってからだ。それ以前でも、実際に行動に移さなかったのは、時折髪を撫でる楽俊の手が優しかったから。
嫌だと思う髪も、楽俊に触れられると大切なもののように思えてしまうから本当に不思議だ。人を想うということは、自分を想うことと似ているのかもしれない。大切にしてもらえる自分を大切にし、彼が大切だと思うものを理解し、大切にしたい、しようと思うことは。
そんなことを考えていると、開けていた瞼が段々と重くなってきた。睡魔がすぐそこまで眠りをつれてきている。陽子はそれに逆らうことなく目を閉じた。
しばらくすると、遠くから近付いてきていた足音が扉の前で止まった。楽俊が入室するのを眠りの淵で感じながらも、重い瞼を開けることはできなかった。
「陽子? もう寝ちまったのか?」
――ううん、まだだよ。でも、もうすぐ寝てしまいそうだ。
言葉にならない返事をする一方で、ずぶずぶと眠りの中に沈んでいくのを感じていた。
それを知ってか知らずか、仕様がないなと言わんばかりに楽俊は微笑んだ。
「おやすみ、陽子」
――おやすみ、楽俊。
髪を撫でる楽俊の瞳は、きっとあの夕日の中で見たときのように柔らかい色を浮かべているのだろう。
楽俊の手が優しく陽子の髪を撫でるのを感じながら、陽子の意識はすっと夜の中へ落ちていった。