恋愛即興詩
自分の内には、火が灯っている。風に揺られ、小さくそして大きく姿を変える。
大きく燃え上がれば惨事になってしまうことを十分に理解していたから、風を遮る努力はしていた。今もそれは変わらない。
けれでも、風は容赦なく火を煽る。
じりじりと胸を焦がす炎に、いっそ手綱を放してしまえば楽になれるだろうか。できもしないことを夢想する。
瞼の裏、燃え広がる炎の海。黒い煙を伴うそれは大勢の人間を呑み込み、やがて炭と化す。
何もかも全て等しく黒で塗り潰され、やがて来たる永遠の静寂。
それはそれでいいのかもしれない、と思ってしまう己は確かにいるのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「――楽、俊?」
呼び止められた、震えるような小さな声。どこかで聞いたことのあるそれに、楽俊はゆっくりと振り返る。
その先に見えた泣きだす直前の青年の顔に、「はて、どこで会ったろう」と、小さく首を傾げた。
雁の大学まで戻った楽俊は、書簡用の紙を購入するため市へと出かけた。姿は獣形だった。
大学へ提出するもの以外で楽俊が普段使用するのは、書き損じを梳き直したものがほとんどだ。中には何度も梳き直してある薄墨紙もあるため、墨の色が濃く出ているその紙では細い字が判別しづらいことも時折あった。
真白い紙は苦学生である楽俊にとって高級品であるため、必要に応じて入手していた。数回分を買いためるだけの余裕はない。それもあって、陽子への返事を書くときは、いつも以上に誤字など書き損じがないよう注意を払っていた。
「翠祥堂」という文房四宝を取り扱う店が、楽俊の贔屓だった。たまたま立ち寄った店だったのだが、品揃えもよく、鼠の半獣である楽俊を店主は快く受け入れてくれたのだった。後日、楽俊と同じ年ほどの子がいるとのことで紹介された。店主の息子は狼の半獣だった。今は、別の店で商人として修業の日々だと笑っていた。
図書府のように紙類を扱う場所で鼠は厳禁であるため、鼠の半獣である楽俊は敬遠されてしまう。加えて楽俊の獣形は鼠だ。どうしても不潔であるなどという印象を拭えない。そうでなくとも、人々の半獣への差別はどこか拭いきれないものがある。勿論、差別しない人もいる。雁へ来て、そういった人々と出会う機会が増えた。故国にいたときには考えられないことであり、自分は本当に恵まれているのだと楽俊は思う。与えられた幸運を生かしきり、その厚意に報いたい。そして、自分の生き方を選択できるようになりたいものだと日々を重ねていた。
その日も翠祥堂へと赴き、楽俊は紙と足りなくなっていた墨を選んでいた。紙は原料により筆の滑りや滲みが異なるためであり、墨は黒一色といえど、僅かに紫や青味を帯びたものなど実は多様なためである。
ちょうど製紙工房の人間が商品の納入に来ていたようで、店主と何やら話をしていた。客の訪れに気付いた店主と目礼のみを交わし、あえて声をかけるようなことはしなかった。
しばらくすると、話が終わったのだろう。工房の人間が店主に礼を言う声が聞こえてきた。
新しく陳列されていたものについて尋ねようと楽俊は眺めていた墨から頭を上げる。
店主も悩んでいた楽俊に気付いていたようで、笑顔で新しく入った墨について一つ一つ丁寧に説明してくれた。楽俊は結局、その中から赤紫色を帯びたものを購入することにした。また、大学の講師が伸びのよい青味を帯びた墨を探していることも伝える。
「そうですか。では楽俊殿、この度よい青墨が入ったことをお伝え下さい」
「はい。お任せ下さい」
そう言って、店主が楽俊の選んだものを包むために一度店の奥へ姿を消す。再び墨に視線を戻した楽俊の名を背後から呼ぶ者がいた。
「楽俊?」
振り返った先にいたのは、先程の工房の使いの者だった。多岐にわたる人脈を持つ楽俊とはいえ、製紙工房に知り合いはいない。
はて、どこであったろうかと考えているうちに、使いの青年は近付き、楽俊の手を握りしめた。
「あの――?」
「楽俊、俺だよ。覚えていないか? 短い間だったけど――同じ庠学だった小藍だよ」
自らの幼名を言った青年の左の口元にある小さな黒子。そして、小藍という名前。楽俊の記憶に光が射すように思い出された光景。
「ああ――小藍、か」
青年の幼い頃を楽俊が思い出したことに気付いたのか、青年は嬉しそうに笑った。
◆ ◆ ◆ ◆
とある日、母親の働いている場所まで荷物を届けに行った帰り道、楽俊は必死な声音で呼び止められる。振り返るなり、ぎょっとした。
そこにいたのは、同じ庠学で見たことのある少年と、その友人らしき人物だった。
小藍と呼ばれる少年は親が国をまたいで商いをしているせいか、巧にありながらも半獣に対する差別をほとんど持っておらず、楽俊に好意的に対応する数少ない人間であった。
「助けて。木の上に登って遊んでたんだけど、足を踏み外して――」
泣きながら語る小藍は、足から血を流す少年を必死で支えている。
「早く消毒しないと大変だぞ」
怪我の具合を見た楽俊は血相を変え、出かけるときにいつも携帯している傷薬を探るもどうやら切らしてしまっているようだった。
「そいつの家はどこだ?」
「すぐそこ」
小藍の言葉に、楽俊は背を向けてしゃがみ込む。
「じゃあ、おいらの背に乗せろ。運んでやるから」
体格が同じほどの小藍が支えるよりもその方がよいと判断したのだろう。小藍は友人を楽俊の背に乗せると、「こっち!」と案内を買って出た。
小藍の言う通り、子どもの家はそこから目と鼻の先だった。
戸を叩き、顔を出した少年の父親らしき人物を見て楽俊は表情を緩める。そうして、顔を苦痛に歪ませている子どもの体を彼に任せようとした矢先だった。
「お前がやったのか」
子どもを引ったくるようにして奪った男は、険しい表情で楽俊を睨みつける。
「さっさと出ていけ! この半獣が!」
楽俊の体を突き飛ばすと、戸は荒々しく閉じられた。
その素早い一連の動きに、何もかもを通り越し、呆気に取られた楽俊は地面に座り込む。
側で唖然としている小藍に、男はまるで気付いていなかった。おそらく、怪我をした息子の姿と楽俊の顔を見ただけで、頭に血を上らせたに違いない。
「あの、楽俊、ごめん。俺が――余計なことを頼んだから」
「お前のせいじゃないだろ」
泣きそうな顔で見上げてくる小藍に、楽俊は表情を和らげ立ち上がる。
「ちょっくら、驚いちまっただけだから」
血が流れてたから、動転してしまったんだろうよ。小藍に微笑みかけながら、自分自身に言い聞かせるように言う。
――慣れている。
だから、自分のせいで、小藍まで辛い思いをすることはない。だから、彼の気持ちが落ち着くなら、いくらでも笑顔を作ることができた。
仲が良いとまではいかずとも、庠学で好意的な顔見知りを作ることはある程度可能だった。しかし、ある一定の年齢を超した大人には拒まれていた。
目が合うだけで顔を顰めたり、無視をされるならまだいい。店に入ろうとしただけで追い出され、買い物もろくにできないこともよくあることだ。同じ人間として扱われないこともまた。
――いつまで続くだろう。
いつになれば、と思う反面、一生このままだろうという思いも確かにあった。
いつになっても同じ人として認められることなく、いまは好意的な者もいつかは自分から離れ、そして拒絶するようになるのだろう。いつまで経っても、半獣は成人できない。
仕方のないことだ。それが、楽俊が生まれ、一生を過ごす巧という国なのだから。
――本当に?
内から響いてきた声に、楽俊はそっと耳を塞いだ。
「楽俊、ただいま。戸を開けておくれ」
はっと頭を上げると室内は薄闇に覆われていた。窓の外を見ると、藍色が空を染め上げていた。家に帰って随分と時間が経っていたことに、初めて気付く。
「今開けるよ」
戸を開けると、両手に荷物を抱えた母親が中へと入ってくる。
「遅くなってしまって悪かったねえ。帰りがけに仕事を一つ頼まれたものだから」
「いや、気にしないでいいよ、母ちゃん」
「そのかわり、奥様から花巻をいただいてきたんだ。温めて夕飯にしようか」
「うん、そうだな」
楽俊は花巻の包みを受け取り、嬉しそうに笑った。
いつもなら、そんな楽俊に何か言葉をかける母親は沈黙したままだ。
「母ちゃん?」
視線を上げた楽俊は、何か難しい表情をした母親に、唐突に抱きしめられる。
「誰かに苛められたのかい?」
僅かに体を硬くさせた楽俊の耳元で、母親は静かに呟く。
「笑うことはいいことだ。笑顔は人を優しい気持ちや幸せにしてくれる。けれど、本当に苦しいときに無理して笑う必要はないんだよ」
優しく諭すような口調は、心配する気持ちから来ていることを知っている。
「辛いときは、辛いとお言い。無理して笑ったりする必要なんてないんだ」
「――うん」
次にそんなことをしたら尻をぶつからね、と顔を合わせる母親に、彼女なら本当にやりかねないと思い、そうしたら何だか笑ってしまった。声を上げて笑って、次第に涙が出た。
馬鹿な作り笑顔を見破って、叱ってくれる人がいる。傷ついた自分を躊躇なく抱きしめてくれる、優しい腕。
本当に大切なものは、自分の手の中にあるのだと実感した。
玄関の戸が再び音を立てたのは、簡単な夕食を終えて白湯を湯飲みに入れた直後のことだ。
「楽俊。俺、小藍」
戸を開けると、あの少年の家の前で別れた小藍が立っていた。
「どうしたんだ、こんな時間に。……一人で来たのか?」
楽俊の問いかけに小藍は首を横に振る。
「兄ちゃんと来たんだ」
「そうか。なら安心だな」
妖魔が出ないとしても、人攫いや賊というのはいつ出没するかわからない。子ども一人よりも、成人といる方が被害に遭う可能性がぐっと下がる。
「これ、預かってきた。楽俊に渡してくれって」
握りしめた木簡を楽俊に差し出し、受け取った楽俊の手をぎゅっと握りしめてくる。
「小藍?」
「楽俊は、また庠学に来るよな?」
「……ああ、勿論だ」
楽俊の返事に小藍はやっと表情を緩めた。
「じゃあ、また明日な!」
「ああ、また明日」
嬉しそうに兄のもとへと走り寄る小藍を見送りながら、楽俊は手の中の木簡へと視線を落とす。
そこには謝罪と礼とが書かれていた。
たどたどしくも一生懸命書いたことがわかる字に、楽俊は思わず苦笑を漏らした。
あの後しばらくして小藍は家族と共に雁へと移り渡った。商人であるが故の直感――近いうちに訪れる国の崩壊を察し、手遅れになる前にということだった。
別れるときも小藍は楽俊の両手を強く握ってきた。
「楽俊。絶対に、雁へ来てくれよ。お前は、頭がいいんだから、いつまでもこの国にいちゃいけない。きっと、雁なら、お前はもっと、ずっと、思うように生きれるんだから」
その言葉に、楽俊は何も言えなかった。半獣であることがどういうことなのかを重々承知していた楽俊は、それに応え約束することなどできなかった。
それでも、小藍が楽俊のことを心から思っていることは十分すぎるほど伝わってきたので、
「ありがとう。小藍、本当にありがとう」
せめて、と精一杯の笑みを浮かべて見せた。
察しのいい小藍はくしゃりとさらに顔を歪ませて、痛いほどに手に力を込めてきた。
「待ってるからな。俺、楽俊が雁に来るのを待ってるから」
その真摯な言葉は楽俊の胸に深く響き、長い間、楽俊を支え続けたのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
成人した小藍は藍暁となり、現在は製紙工房の商いをしており、もともとの店は藍暁の兄が継ぎ、三男はその手伝いをしながら商人としての修行中だという。
「そうか、独り立ちして頑張っているんだな」
翠祥堂の主人から荷を受け取った後、二人は近くの店で少しばかり遅い昼食をとっていた。
「独り立ちって言っても名ばかりで、毎日雑用をやらされているよ。でも、だからこそ、遣り甲斐があると思ってる」
幼い頃の面影を残したその顔は、商人の表情で、思い出の中のそれよりもずっと精悍さを増していた。
「でも、ちゃんと来たんだな、楽俊」
「――ああ。色々あったけど、来たよ。雁に」
今は大学にいるのだと続けると、藍暁は子どものように破顔した。
「そうか――うん。そうか!」
「……そんなに嬉しいことか? おいらが大学にいることが」
「当り前じゃないか! 俺はずっと、お前が雁の大学に行くことを信じてたよ。楽俊は――信じることができなかったかもしれないけれど」
少しばかりの悲しみが混じった声に、楽俊ははっと頭を上げた。
「あの国では無理ないことかもしれないけれど――だけど、俺は信じていたよ。楽俊なら、きっと海を渡ってこれると」
そう言って、藍暁は楽俊に今まで見せたことのない顔で笑った。
「ずっと、信じていたよ」
楽俊の中にある可能性を。そして、それを現実にすることを。
幼馴染である少年はそれを信じ、信じたまま成人し、今の今まで待っていてくれたという事実に、胸が熱くなり、楽俊の視界はゆらりと揺れた。
――待っていてくれた。待たせてしまっていた。
ずっと。ずっと、自分が信じることのできなかったその可能性を、己自身を、幼い少年が成人する長いその間。
信じていてくれたのだ。
「ありがとう――ありがとう、小藍」
嬉しく、ありがたく、ただただ頭が自然と下がった。
ほたりと落ちた涙。その一粒にすら感謝の気持ちがこもったような気がした。
おそらく、火は一生消えない。
どんなに小さくなっても、燻り続ける。
しかし、自分の周りにいる優しい人達が見守っていてくれる限り、炎が勢いを増すことはない。そして、自分はその火を、一生をかけて殺し続けることができるだろう。
自分に寄せられた信頼のために、その感謝のために。
◆ ◆ ◆ ◆
夕方になって楽俊が大学寮へ戻ると、鸞が待ち草臥れたようにして窓枠に止まっていた。
待たせてしまって悪かったな、と声をかけ室内に入れてやると、書簡を受け取り、詫びの代わりに銀の粒を三粒与えた。
書簡を広げたときにふわりと香る匂いは、陽子が使用している香と同じものだった。匂いが移ったのか、それともわざわざ焚き染めたのか定かではないが、陽子から送られてきたのだと現実感が増した。
内容は、景麒のことから始まり、遠甫とのことや季節のこと、剣の鍛錬のことについてなど、陽子の日々のことについて書かれていた。
陽子らしいその内容に思わず笑い、そして、最後に共に入っていた別紙に書かれていたものが目に留まった。
『ふたつ文字 牛の角文字 直ぐな文字 歪み文字とぞ 君は覚ゆる』
見慣れないものに、はて、と首を傾げて、いや、見た覚えがあるぞと記憶を辿る。
しばらくして、あちらの文字であることや、陽子に教えてもらったことを思い出す。
確か、これは娘が父に宛てた和歌というもので、その意味は確か――。
『恋しく、そのように貴方を想っています』
恋の歌ではないが、だからこそ陽子らしいようで楽俊は思わず笑みを浮かべた。
人に信じてもらえるということ。恋しい娘に同じく恋しいと想ってもらえること。自分の置かれた環境。望まぬことも多くあるが、それでも――。
幸せだ、と思ってしまう。
そして、楽俊は筆を取る。
文字が語るのは、普段自分が利用している翠祥堂のこと、その店主親子のこと。そこで偶然、巧国での幼馴染に出会ったこと。紙のこと、墨の色のこと。
最後に添えるのは、藍暁より試しに漉いてみたものだと渡された紙――書簡用にと作られた、蓮の花弁を思わせる色紙が散らされた――に、一文。
『わがむねの うちにさきける はやざきの はすをかさねて おもうがごとし』
書き終わり筆を置きながら、陽子が歌の意味がわからず他の誰かに意味を問う可能性に、はた、と楽俊は思い至ったが、「まあ、いいか」と笑った。
そのように陽子を想うのは、紛れもない楽俊の真実であるのだから。