恋愛即興詩



 手紙を書くね、と約束したのは楽俊が慶を去る日の早朝。
 楽俊が延から借りているたまと共に、門を通り抜けるときだった。
 そう告げ、陽子は「またね」と笑顔で手を振り、宙を駆けるその姿が消えるまで見送ったのだった。

 その日から十日が経過し、文机に向かい真白い紙を前にした陽子は、自らが発した言葉を思い出しては頭を抱えていた。
「いざ、書くとなるとな」
 楽俊に書簡を書くのは久し振りのことで、ましてや今の陽子に書簡を書く機会もそうない。書き出しから躓いてしまい、随分長いこと白紙をただ見つめるばかりだった。
 執務の合間に時間を見つけては紙を広げているのだが、遅々として筆は進まず、持ち上げては下ろす動作を繰り返している。そうやって時間は過ぎていき、最悪、書簡を出せないまま次の逢瀬になる、なんてことにもなりかねない。約束した手前、それだけは避けたい。
 とりあえずは内容を整理するため、習いに使った適当な紙を持ち出し、そこに一つ一つ書き留める。
 楽俊が帰った後、文書に問題を見つけた景麒に捕まり山のような訂正を行ったこと、遠甫が充実した話ができたと大層喜んでいたこと、こちらも随分春めいてきたこと、景麒に内緒で毎日剣の鍛錬を欠かしていないこと、剣の腕が上がったと褒められたこと。
 日々のことをつらつらと書き連ねていく。さほどたいした問題ではないが、きっとそれでいい。楽俊はそれを望んでくれているだろうと、陽子は思う。王ではなく、陽子自身の日々のことを聞かせたい。そして、知っていてほしいのだ。
 ここまで挙げて、それらを清書した。一文字一文字丁寧に、筆を走らせる。
 それが終ると、陽子は再び頭を抱えた。
「楽俊のこと心配するようなことを書いたら、気分悪くするかな」
 陽子が心配したことは、楽俊が何事もなく雁に着いたかどうか、慶への訪問が学業に支障をきたししていないかどうか。延主従に余計なちょっかいを出されていないか、食事をきちんととっているか。
 特に後者は楽俊の心身にとって大きな問題である。気疲れする姿が容易に想像できてしまうのが、全く恐ろしい。また、楽俊の誇るべき集中力が仇となり時間の経過を忘れ、寝不足や食事を抜いてしまうこともあるのではないかと懸念していた。
 ああ、次に来てくれるときのお土産は栄養価の高い食べ物がいいかもしれない。日持ちするものを鈴に相談してみよう、と陽子は筆を手に考えていた。できるなら、高価ではないものがいい。値が張るものはきっと受け取ってくれないだろうから。
 少し考え、やはりおせっかいだな、とそれらについては触れないことにした。第一、楽俊はそこまでの無茶はしないだろうと思いなおしたからだ。最低限の自己管理はでき、楽俊は意外と様々なことを抜かりなく事を運ぶ。時折、短期間の仕事で給金ももらっているようだから、貧しくとも慎ましい生活で困ることがないように思う。貧しさの中でどうすればよいのかを、楽俊は熟知していた。
 書簡を送るのは形に残せるからだ。だから、陽子は時折、鸞の足に書簡をくくりつける。そして、書簡の内容を簡潔に書いたものと、返信とが対となるよう製本した書簡集を、楽俊には内緒で作成している。
 本を開いたとき蝶の羽のように見えることから名がつけられた蝴蝶装――文字の書かれた面を半分に折り、その折り目が重なるように台紙となる書葉とを糊付けし、硬い表紙をつけた製本形態――を、書簡集用に応用したもので、基本の作りは折本となっており、頁の大きさに合わせ書簡を切り貼りしている。表紙だけを始めに作り、裏表紙はその年が終わるときにつけるようにした。
 まだ誰にも知られていないそれは、自分が没するときに誰にも知られぬよう処分するつもりだ。自分だけが知る書簡集は、誰にも見られたくない、誰も見る必要のない陽子の宝物だった。

 一通り、伝えるべきことは書いた。最初から何度も読み返し、おかしな部分がないか確かめる。何かとこちらのことにおいて知らないことの多い陽子ではあるが、楽俊に宛てる書簡くらい不備のないようにしたかった。例えあったとしても、楽俊は気にしないか、それとなく伝えてくれるだろうが。
 楽俊、と呟く。
 今、何しているだろうか。
 大学かな。
 私の知らない誰かと、私の知らない時間を過ごしているのだろう。
 自分よりも年上の、成人している男性を心配するというのもおかしな話だった。
 彼の側には自分がいなければ駄目だ、と言うつもりはない。彼は自立した大人だ。それでも、自分は少なからず楽俊の役にたっていると思っている。未だ至らぬことも多いが、どちらか一方が負担をかけるのではなく、互いに支え合っていること。それは陽子喜びであり、誉れでもあった。
 想いは巡り、陽子はふと筆を取り、別紙に一つ歌を書いた。

『ふたつ文字 牛の角文字 直ぐな文字 歪み文字とぞ 君は覚ゆる』

 書き終えてから、やはり止めておくべきかと陽子は悩んだ。
 以前、六太が持ち込んだ古典の教科書。あちらでは慣れ親しんでいたそれへの懐かしさのあまり、楽俊に掲載されていた作品について簡単な解説を行ったのは、少しばかり前のこと。
 楽俊はそのことを覚えてはいても、その一部までは覚えていないかもしれない。加えて、何の捻りもない引用を一文。
 しかし、陽子はその想いを直接言葉にして伝えることができるほどの器用さを、持ち合わせてはいなかった。
 ――幼稚でもいい、かな。
 全てのことにおいて、陽子は子ども同然の経験しかない。楽俊から見てもそれは明らかだろう。零ならば、これから加えていけばいいだけのこと。
 日付と宛名を書いた後、永い幸福を願う「永福」という遊印と名の刻まれた印を添えて、封をした。
 書簡が空を駆け、楽俊の手元に届くまで三日。そして、その返信が陽子の手元に届くまで同じほどの日数がかかる。
 楽俊の言葉が届くまでのその数日間。陽子にとって待ち遠しい日々になるのだろう。



 鳥籠から出した鸞の足に、手紙を入れた竹筒を繋ぎ、爪でそれをしっかり掴ませ空に放つ。見上げる青空に瑠璃の翼。それはやがて一点となり、陽子の視界から見えなくなっていった。
 このように過ごす日々も、見えなくなった瑠璃色のように、いつかは泡沫と化すだろう。ならば、いつか来るそのときまで己の思うように最善を尽くし、楽俊と共に時を重ねていきたい。
 陽子が初めて差し出した手の平を掴んでくれた温もりは、きっと最期までこの手中にあるのだろう。望むものは、もう既に陽子のもとにある。それ以上を望むべくもない。
 陽子は不思議と満たされた思いで、踵を返した。
 休憩時間が終わるのだ。陽子は内殿へ戻らなくてはならない。仕事は文字通り、山のようにある。そして同じく、慶という国の抱える問題もまた。
 至らない自分がどこまで行えるのかもわからない。最良が尽くせるべくもない。しかし、王である以上、最善の中の最良を行う義務が陽子にはあった。
 そうやって積み重ねていくうちに、最良を尽くせる日が来るのかもしれない。来ないかもしれないが、それでも希望はある。
 陽子は視線を上げ、足を速める。
 ――絶望など、するものか。
 希望はまだ、陽子の内にある。前進する歩みを止めることなど、できるはずもない。

「待たせた。再開しよう」





アイリス・・・恋のメッセージ