嵐の娘



 二人の間に距離はない。手を伸ばせば、簡単に触れることのできる距離。
 しかし、二人の間には壁がある。高くて分厚い、強固な壁。身分や時の流れが、二人を大きく隔てていた。
 ――壁を邪魔に思っているんだろうな、陽子は。
 少女の睫の震えを間近に見ながら、楽俊は思う。
 ――そうでなければ、今このときに言うはずがない。



 遠雷の響く薄暗い部屋で、二人の男女が睨み合っていた。
 片方は死を宣告されたかのような顔を、もう片方はどこか冷めた顔をしている。
 一見、片方が片方を責め立てているかのような二人だけれど、その手はしっかりと重ねられていた。
 ――どうする。
 手を重ねたはいいが、それきり陽子は動かない。蒼白の顔のまま、ただただ楽俊の手を握りしめているだけだ。
 時折白い光に照らされる部屋で、響く轟音も耳に入らないかのように沈黙を繰り返している。
 ――握って、それでどうする。
 自分の生まれ育ちのせいか、楽俊は自らの置かれた状況や、周囲を見ることには長けていた。そうやっていかねば生きていけなかった。そうやってでしか生きていけない国だった。
 けれど、巧という国は、楽俊の核となる部分が作り上げられた場所でもあった。
 冷静に陽子の様子を観察しながら、とりあえずはされるがままになってみる。少女の考えていることは、だいたいわかっているつもりだった。



 ある日、何も知らず、何も知らされずにこちらの世界にやってきた少女――陽子は、突然、一国の主となった。
 その過酷とも言える彼女の旅に同行することになった楽俊は、少女と友情を育むことができた。そして、それは今も続いている。
 彼女が一国の主となる切欠とも言えなくはないことを――迷っていた少女の背中を押したのは楽俊だ。だからというわけではないけれど、楽俊にはある種の責任感のようなものがあった。
 陽子という少女の、絶対の味方であろうと。そして、彼女が賢王であれるように助力しようと。
 彼女は、それができる少女――そうしてやりたいと、思える可能性を秘めた人間であったから。

 彼女は蓬莱と呼ばれるあちらで育ち、ほとんど何の知識もないままに玉座に座ることになったせいか、こちらの常識では考えられないような突拍子もない行動に出ることがある。
 それは、楽俊を色んな意味でひやひやさせたり、どきりとさせたり――目から鱗が落ちるようなことでもあった。いつかの内乱のときも、泰麒捜索のときもそうだった。
 彼女の王としての印象は、古く淀んだものを、少々手荒とも思える方法で吹き飛ばし、その後に豊饒をもたらす、嵐そのものだ。
 おそらく嵐は、嵐であることを知らない。そうあるべくして、生じる現象の一つに過ぎないからだ。
 ゆえに、彼女は自らが嵐であることを知らず――だからこその、嵐だ。

 己の心を偽ろうとしない陽子の気持ちが、いつしか楽俊には聞かなくともわかってしまった。
 もともと人の心の機微には聡い。その上、相手が自らが思いを寄せている相手ならばなおさらだった。
 最初はわからなかった。それが少しばかり度の過ぎた友情だと――こちらで初めて得た友人という、雛が親鳥に懐くようなものだと思っていたから。
 けれど、次第に僅かずつではあるが熱のこもった、物言いたげな目を向けられるようになり、ようやく楽俊はそれが友情でないことに気付いたのだ。
 知ってしまえば、どうして今まで気付けなかったのだろうと思うほどのそれに、楽俊は内心溜め息をついたものだった。
 そして、少女がある一定の距離から近付いてこないわけにも、すぐに気付いた。
 ――壁が邪魔なんだろう? 陽子。
 国を背負う王という立場。女王に恵まれない慶。懐達という言葉。予王の残した影。
 他者に求められるものは多く、自らが求めらるものは本当に少ない少女の現状。
 その中で求められているという優越感。少女の視界を狭めてしまうのではないか、という恐怖にも似た不安。
 全ては混沌として存在し、それら全てが楽俊の真実でもあった。
 ちらりと様子を窺うと、少女は我が侭を通そうとする子供のような顔になっている。
 青白い顔のまま、それでも手だけは離そうとしない陽子に、楽俊は小さく息を吐き、込み上げる苦笑をこらえた。
 ――本当に、手がかかる。
 楽俊が壁を壊すことはできない。壊してくれということもできない。少女が背負うものを知っており、そして、その内にある蟠りを取り除くのは、少女自身でなくてはならない。陽子の闇は、陽子自身の手でもってして払わなくてはならない。
 壁は、少女自身の意思でもって取り払わなくてはならないのに、ようやく手を伸ばしてきたと思ったらこれなのだ。

「陽子」
 呼ぶと、陽子はびくりと肩を震わせた。
「色々、障害があると思うけど」
「……え……?」
 陽子が訝しげに目を上げる。それを無視して、楽俊ははっきりと言葉を紡いだ。

「お前、壊すの得意だろう?」

 国の慣例や建前なんて、おかまいなしだったじゃないか。
 見えない壁の一つや二つ、どうってことないだろ。

 思いを込めて見つめれば、陽子の双眸はみるみるうちに挑むような色になった。
 楽俊はそれを認めると強い力で陽子を引き寄せ、その細い体を力いっぱい抱きしめる。
 長い腕の中に陽子を捕らえながら、やはりどこか冷静な楽俊は、この始末は陽子につけてもらおうなどと考えていた。

 これから楽俊は、関わることのないはずだったものと、否が応でも関わらなくてはならないのだろう。
 それは陽子と出会ったことで増えたものだったけれど、今このときから違う意味を持ってしまう。
 陽子と共に永い時間を生きるため――愛し、愛されるために。
 きっと、後戻りはできない。二度と、安穏とした日々には戻れないのかもしれない。
 けれど、それも全て、楽俊自身で選んだことだ。
 ――だからたまには、おいらが陽子を壊したっていい。
 背中に回された、しがみつくような腕の力強さに、心の中でこっそり嘯く。
 予想以上の破壊力が少し怖くもあったが、おそらく少女の告白に応える覚悟など遠の昔にできているのだ。
 少女に恋した、そのときから。


「陽子が好きだ」




一人静・・・愛にこたえて