黙って抱いて
最初に手を伸ばしたのは、陽子からだった。
窓枠に腰掛けてぼんやりとした仕草で、書架から本を引っ張り出しては、ぱらぱらと眺めている人型の楽俊を目で追っている。
浩瀚の許しをやっとで得た、慶国の歴史書を中心とした資料室だった。
自分にとって得るものがあるかもしれないと、頑張って読み進めているけれどなかなか進まず、目下それは楽俊のみである。
埃臭い部屋に、僅かな隙もなく並んだ本棚、そこに押し競饅頭よろしく詰め込まれた書籍類。
貴重な資料を一冊取り出すだけでも時間がかかり、強引に引っ張り出そうものならば、隣近所の本を巻き込んで雪崩を起こした。
よくもこんなになるまで本を無造作にしまい込んだものだと、呆れるよりも先に感心してしまうほどだった。
小さな明かり取り窓から光が射し込み、薄暗い部屋をほの白く照らしており、埃の舞い上がる軌跡が、薄淡い光に照らされてまるで綿毛のようだ。
陽子は、時折思い出したように、本をぺらりと捲っている。
ふと何かに思い至り、側で腰を屈めて床に重ねられている本を拾おうとしていた楽俊の手に指を絡めてきた。
「どうした?」
楽俊は顔を上げた。
その瞳に浮かんでいるのは、調べものを邪魔されたことに対するちょっとした不機嫌さと、少女の悪戯に気付いて咎める色で揺れていた。
「退屈だから、邪魔をしようかと思って」
「退屈なのは資料を読み進めていないからだろう。陽子がひっくり返したんだから、少しは手伝ってくれ」
「つれないなぁ」
陽子はくすくすと笑う。
楽俊は、そんな陽子の様子に少しだけ目を瞠る。
今日は何だか随分と機嫌がよさそうだ、と。
人前でそんな仕草で笑うことはあんまりない少女なだけに、何があったのだろうかと思う。
「たまには、ゆっくりしてもいいだろう? 浩瀚のお蔭で、好きなだけ調べてもいいんだから」
陽子は本へと伸ばされかけた楽俊の腕を取ると、すっと自分の身体へと引き寄せた。
とっさのことに楽俊は転びそうになって、驚いた声を上げる。
「わっ!」
そのまま、ばふりと自分の胸に陽子の顔をぶつけてしまった。痛みは感じないが、少女を潰してしまいそうな体勢だ。
「こら、陽子。危ねぇだろう」
非難の声を上げると、くつくつと楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
楽俊は体を離して文句を言おうとするが、強い力でそれを押し止められた。どうやら陽子は、楽俊が体を離すことを許してはくれないらしい。
仕方なしに、そのまま座り込み、陽子の頭を優しく撫でる。
ちっと姿勢がきついんだけどなぁ、と思ったが我慢した。その真意はわからないが、少女が意外と悪戯好きなのは今にこしたことではない。
ふっと仕方なしに息を吐き出すと、とくとくと心臓の音が感じられた。
陽子の、鼓動。
少女が生きている、証だ。
意識した途端、何となく吐息が漏れた。
それに反応してか、陽子の身体が震える。笑っているのだとすぐに気付いた。
そういやぁ、和んでる場合じゃねぇんだった。我に返り、自分の胸に顔を埋める少女に声をかけた。
「陽子。おいら、まだ調べ物が残ってるんだがな?」
顔を上向けさせようとして、今度は成功した。
少女は緑色の瞳を真っ直ぐに向けてくる。部屋が薄暗いせいか、瞳の色が緑玉のように煌めいて見えた。
その瞳が面白そうに細められ、ふっと頬に口付けられた。
楽俊は瞳を瞬く。
「な、何だぁ?」
あたふたと慌てる楽俊に、陽子は笑いかける。
「スキンシップ」
「はぁ?」
楽俊が瞳を見開くのと同時に、今度は反対側の頬に口付けられる。
珍しい。
楽俊は心底驚いた気持ちで、時を止めてしまった少女を見た。
どちらかと言うと、人と過剰な接触を嫌う傾向にある少女が、悪戯や冗談とはいえこんなに触れてくるというのは滅多にないことだった。
「陽子、どうしたんだ?」
「別に、何も」
「資料を調べるんだろう?」
「休憩中」
「さっきから、陽子は休憩しかしてないように見るんだけどなぁ……」
軽く睨みつけるように言うと、今度は微笑みの種類が少しだけ苦味を持ったように変わる。
楽俊の背中へといつの間にか回されていた少女の腕に、力が込められたのがわかった。
何となく猫のようにじゃれついてくる、そんな雰囲気だった。
触れ合うことを楽しむような仕草に、楽俊は手を伸ばし、少女の前髪を掻きあげた。
宝玉のような光を放つ双眸をひたと見つめて、窺う。
「何かあったのか?」
何となくそう思った。
別に確信があったというのではなくて、どことなくいつもと違う陽子の仕草に引っかかりを感じた。
とたん、陽子の表情が崩れた。
驚いて瞳を見開き、笑みを引っ込めた無表情から、すぐに疲れたような微苦笑に変わる。
「どうして楽俊は、そう勘がいいんだろうな」
「そんなことねぇさ。陽子のことだからかな」
陽子は困ったように瞳を瞬かせた。
「何かあったんだな?」
「ん……」
歯切れ悪く言い淀むのは、少女の癖だ。少女は人に悩みや不安をもらすことを嫌がる。
嫌がると言うよりは苦手、苦手というよりも拒絶に近く、それ以上に自分自身に戒めているというのが正しい。
例え恋人であろうと、友人であろうと、少女はぎりぎりの淵に佇んだまま、決して泣き言をもらさない。
たぶん、それは少女が生きていく上で大事にしている誇りであり拠り所なのだろうと、そう思うから、楽俊は決して強要しない。
誰にも他人に踏み込まれたくない一線はあるだろうし、幼子が駄々をこねるかのように守りたい砦があるのだ。
例えそれが、どれほど脆く壊れやすく、そして苦しさや痛みを内包していても、それを失っては生きてはいけない者もいるのだ。
自分だってその一人であることを、楽俊は知っている。
当たり障りのない微笑みを浮かべることで、隠してしまいたい感情もある。
そこに隠されたものを、例えば遠く離れた唯一の肉親や、また誰よりも大切だと想う目の前の少女であっても知られたくないと思う。
でも、そういうふうに絶対に他人に言えない部分や知られたくない部分を一人で背負って未来へと進むことが、大人になるということなのだろうとも思うのだ。
幼子のように救いの手を求めて泣き縋るだけでは、誰も守れないということを自分も少女も知ってしまっている。
「陽子」
楽俊は、ほんの少し労りを包み込んだ瞳で少女を見つめ、首を伸ばし額へ口付けた。
「大丈夫だ。陽子なら、何があっても。ちゃんと上手くいくさ。おいらは信じているから、陽子がしたいようにすればいいんだ」
楽俊は微笑んだ。
「どんなときでも、おいらは陽子の味方だ。側にいるから、ど〜んと、当たって砕けて壊れちまえばいい」
陽子が瞠目した。声を失ったようなあからさまに驚いた顔をするが、その表情もすぐに苦笑に取って変わる。
少女の口付けが瞼の少し上に落ちてきた。
「それでは、もし私が壊れたら、楽俊まで巻き添えを食うことになる」
憮然とした声音におかしくなる。
「そうだな。でもまあ、一人よりは二人の方がいいだろう? 転びそうになったら支えるし、転んだら手を貸して起こしてやるよ。立ち止まりそうになったら背中を押すし、足が痛いときは陽子を背負う。寂しいときは一緒に話そう。失敗して謝るときは、二人だと怒られても怖くねぇだろ? それに――――砕けた骨は拾って土に埋めてやるよ」
冗談めかして言うと、あきらかに陽子は嫌そうな顔をした。
「それくらいの方がいいんだ、陽子は。それに、自分の気持ちに嘘をついて生きていく方がよっぽど苦しいだろう?」
後悔なんてしたくないと思う。後悔なんてさせたくないと思う。
どんな未来でもどんな結末を辿っても、例えそれが悲劇でしかなくても、自分自身で選択した道であったなら、受け入れられるだろう。
何を犠牲にして、失うことになっても。
迷いながら躊躇いながら迷路のような道で右往左往して大切な何かを失ってしまうことよりは、例えその道がどれほど厳しいものであったとしても、自分自身が選択したものであったなら迷ったりなんてしない。
それが陽子の選んだ道であり、自分の選んだ道でもあるのだ。
楽俊の手が、陽子の髪の毛を梳くように撫でる。
しばらく少女は考えるように押し黙っていたが、結局小さく息を吐きだして笑った。
「そうだな」
ふうと、疲れたような吐息が聞こえた。
その音につられて覗き込んだ彼女の顔は、窓から差し込む光の陰影で随分と疲れているように見えた。
「陽子?」
慶国の王である少女は、自分にも見せられない痛みや苦しみを抱え込んでいる。
呼びかけると、少女は顔を伏せて額を楽俊の肩へ預けてきた。
背中に腕を回してお互いの身体を抱きとめ合い、楽俊は、その薄い背中を母親が赤子をあやすように撫でた。
「陽子」
そっと名前を声に出して呟く。
少女は身じろぎ一つせず、息を噛み殺しているようだった。
何度か深く喘ぐように呼吸を繰り返している。
楽俊は時々震えるように伝わってくる振動に身を委ねて瞳を閉じた。
愛おしいという感情は、こんな何気ない瞬間に強く強く感じる。
どうしたら、少しでも陽子が楽になれるだろうか。
救われるだろうか。
そんなことを終わりなく考えてしまう。
けれど、どんなに考えても役に立たない思考でしかない。
少女は、他人に甘えるには不器用で、守られることよりも守ることを選ぶから。
結局、どんなに側にいて支えを欲していても、口からは救いを求める言葉も弱音も泣き言も紡がれることはない。たいがい強情なのだ。
どれぐらいの間、そうしていただろう。
ふと、我に返ると陽子がくつくつと喉を震わせて笑っていた。
「元気になったのか?」
「うん。悩むのが馬鹿らしくなってきた」
「……それって開き直りか?」
「そう、かも」
「……わざわざ調べ物を中断して、肩を貸してあげて、出た答えがそれなのか?」
楽俊は呆れた声で言い、それからおかしくなって笑い出した。
少女は、まだ顔を伏せたままだ。
「でもまぁ、陽子らしいと言ったら陽子らしいか」
すり寄るように、陽子は楽俊の胸に頬を埋める。
きっと、こうした出来事は記憶の中で薄れていく。それでも、優しいこの匂いや温もりを、心地よく思い出すのだろう。温かな想いと共に。
「どうしてだろうね。欲しいものは決して多いわけじゃないのに、手に入れるのはこんなにも難しい。悩んでも考えても簡単に答えなんて出なくて、一生懸命手を伸ばしてもなかなか掴めなくて……それでも、やっぱり諦められないんだ。一体、どれだけそのために泣いただろうって思うと、本当に悔しくなるんだけど」
「……そうか」
「うん。でも、絶対諦めたりしない。そう決めたんだ、私は」
そこで少女は顔を上げ、楽俊を見た。
大地の緑を溶かし込んだような色の瞳が、楽俊を映し込んでいる。
その瞳が柔らかく揺れると、ふっとその手が楽俊の頬を撫でた。
「悩んでいるわけじゃない。立ち止まりたいわけじゃない。ただ時々、考える。この先のことや、楽俊のこと。自分のこと。……これから先、犠牲にしなくちゃいけないもの、切り捨てなければならないもののことを」
それは、滅多に聞くことのできない少女の胸の内だった。
「私のせいで、苦しい思いを選ばせている楽俊のことを」
そう言った少女の顔は、小さく笑っていた。
今にも涙がぽろりと零れてしまいそうな微笑みだった。
楽俊は瞳を伏せて、優しく言った。
「おいらも考えてる。陽子のこと。おいらが言ったことで、たくさんのものを背負うことになった慶王としての陽子のこと」
「そう……」
「結局、おいら達はいつだって、お互いのことばかり考えてるんだな」
「――かもしれない、ね」
だって、陽子はいつだって自分を二番目に、もしかしたらそれ以下に考えようとする。そうしなければならないのだと、一種の強迫観念のように。
陽子の、慶王の一番はこの国、慶の民だ。それが優先しなければならないことだと、十分理解している。
だからというわけでもないが、自分以外の誰かを一番に大事にしようとするこの少女を、自分が一番に考えてあげなければと、楽俊は思うのだ。
「でも、一人じゃないから頑張れる。おいら達はお互いのことを想っているし、おいらにも、陽子にも、側にいてくれる人がいる」
うっすらと顔を上げた陽子が楽俊を見た。
「そうだね」
そう言って微笑む少女に、先ほど垣間見た疲れの姿はない。
「じゃぁ、大丈夫だ。陽子が心配するようなことなんて何もねぇ」
陽子は瞳を細めるようにして楽俊を見ると、そっと額と額を合わせた。
「うん。ありがとう、楽俊」
淡く微笑んだ少女に応えるように、楽俊はそっと口付け、その体を抱き寄せた。
言葉はいらない。
今しばし、このままで。
あなたが生きてる証を聞かせて。