美しき夢
繰り返し見るその夢の名残か、朝目覚めても視界の端でひらひらとその朱色か揺らめいているような気がした。
風に揺れる赤い躑躅が視界の端に映る度に、それを揺らめく鰭と紛う。
寝ても覚めても揺らめく朱色。まるで白昼夢だ。夢と現の境が曖昧になったかのような錯覚さえする。
毎晩見る夢のせいか、睡眠による疲労回復が行えていないような、何ともすっきりしない日々が続く。
朱色の鰭を追いかけていた。
夢の名残だとわかっていても、視界の端で揺れているような気がして、意味もなく辺りを見回してしまうことも度々だった。
だが、いい加減にしてほしいと、陽子も焦れ始めていた。
何が原因でこのような状態になってしまったのか。揺らめく朱色の鰭を捕らえれば、現状を打破できるのか。逃げるように視界の端で揺らめくのなら、捕らえてしまえば、またいつもの日常に戻るのかもしれない。
可能性にかけ、捕まえてみせると意気込みながら陽子はそっと目を閉じた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「楽俊、そっちで寝てもいいかな?」
二人の小さな家、その楽俊の私室に陽子はそんなふうにして現れた。
「何だ、珍しいな。怖い夢でも見たのか?」
悪夢に眠れない子どものような言葉に、楽俊は苦笑して冊子から顔を上げる。苦笑に苦笑で返しながら、陽子は臥牀に腰掛ける。
「いや……金魚をね、捕まえたいんだ。夢の中の」
突拍子もない内容に目を見開くも、楽俊は冊子を机上へ置き、陽子へと体を向けた。
「夢の中の金魚?」
確認するような声に、陽子はうん、と頷く。
「最近、ずっと見る夢があるんだ」
そう言って陽子は夢の内容を話し始める。
――私は一人で川遊びをしていて、後ろには、お父さんやお母さんもいる。
流れが緩やかな川でね。ふと足元を見ると、金魚が泳いでいるのが見えるんだ。
いつもそれを捕まえようとするんだけど、逃げられてしまう。
するりと両手から逃げて、ゆらりと泳ぐ金魚。
ひらひら揺らめく、朱色の鰭。
「お父さん、手伝って!」
そう叫ぶんだけど、お父さんとお母さんはいつの間にか遠くにいて、私の呼び声が聞こえないみたいに、森の奥へ行ってしまう。
「そんな夢なんだ」
言って、陽子は僅かに目を伏せる。
「何でだろうね。その金魚を捕まえられたら、私も幸せに――満ち足りて、何でもできるような――そんな気がして、必死に追いかけるんだけど、金魚は私の視界に入らないくらいに遠く遠くへ泳いで行ってしまって……一人では、どうしても捕まえられないんだ」
その朱色の鰭が、目の覚めているときにも揺らめくことは言わなかった。
言ってしまえば余計に心配をかける。陽子はそれを知っていた。
「途方に暮れる私は川の中にしゃがみ込んで――そこで目が覚める。とても、悲しくて」
そしてまた、陽子は窺うように笑った。
「本当に、おかしな夢で――笑ってしまうだろう?」
その笑みに自嘲が混じっていることに気付いた楽俊は、椅子から立ち上がり、そっと頭を撫でた。
「笑わない」
縋りつくように、何かを求めるように擦り寄せられる小さな頭を守るように抱く。抱くのは、その内にある陽子の悲しみ。
「陽子は偉いな。ずっと一人で頑張ってるんだろう? おいらだったら、途中で諦めちまったかもしれねぇな」
楽俊の言葉に陽子は沈黙でもって答える。楽俊も、返事を期待しているわけではなかった。ただ、恐れ怯え、悲しみ、それらが少しでも和らぐように陽子の頭を撫で続けた。
そのまま、どれだけの時間が経っただろうか。それほど長い時間ではなかった。
楽俊の体に回された、強張ったような陽子の腕からふっと力が抜けた。
「……楽俊が一緒だったら――捕まえられるような気がしてるんだ」
顔を伏せ、楽俊に抱きついたまま発せられた声はくぐもり、微かに甘えを含んでいた。
「夢の中でも、どこでも、いつでも呼べよ。おいらはずーっと、お前の味方だ」
「――ありがとう、楽俊」
陽子はその日も、金魚の夢を見た。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
――金魚……金魚はどこへ行ってしまったんだろう。
項垂れ、浅い川の中に立ち尽くす陽子に、背後から声がかけられる。
「陽子」
陽子は声に引き上げられるように、ゆっくりと頭を上げる。
いつの間にか子どもだった陽子は、現在の姿になっていた。
近付く青年は――。
「楽俊?」
「何か探しているのか?」
「金魚をね、探しているんだ」
「金魚?」
おかしそうに、楽俊は笑う。子どもっぽいと呆れられたのだろうか。
「お前がその手に持ってるもんは、一体何だ?」
指差されたその先、陽子の右手には、日本の夜店でもらったかのようなビニール袋が握られていた。
中で揺らめくのは朱色の金魚。
「あれ……?」
心底驚く陽子の様子がよほどおかしかったのだろう。笑みを隠そうともせずに、楽俊は言う。
「自分で捕まえたものに気付いてなかったのか? おいらが来たときにはもう持っていたじゃないか」
楽俊の言葉に、陽子は再度首を傾げる。
「おかしいな……でも、何故だろう。ずっとこの金魚を追いかけていたはずなのに――思っていたよりも普通だ」
「何だ、それは。鑑賞用のものならともかく、普通、金魚はそういうもんじゃねぇのか」
「そう、だった、かな……?」
――追いかけているときは、随分といいものに見えたんだけど。
ぽつりとこぼれた言葉を拾うように、楽俊は陽子の頬を撫ぜた。
「それは、こいつが陽子にとって必要なものじゃねぇからだろう?」
「必要?」
「何だ、必要もないのに追いかけてたのか?」
楽俊の問いかけに陽子は首を傾げる。
――そもそも、私はどうしてこれを追いかけていたのだろう。
「――じゃ、こいつを逃がしてやろう」
「逃がす?」
「そうだ。いりもしないのに、こんな小さな袋に入れてたら可哀想だろう」
「そう、だね」
陽子が頷くと、楽俊はビニール袋の巾着を受け取り、川の中でそっと口を開いた。
朱色の金魚は緩やかな流れに乗り、その鰭を揺らめかせ、二人から次第に遠ざかっていく。やがて点になった金魚はついに見えなくなってしまう。
一人で見失ってしまったときはあんなにも悲しかったというのに、今の陽子には何の感情も浮かばなかった。あまりにも落差のある結末に、呆然としているのもあった。
「さぁ、おいらたちも帰ろうか」
「帰る?」
「当り前だろう? 野宿する気か、陽子」
おいら、手ぶらで何の荷物も持ってねぇぞ。そう言って楽俊は陽子の手を取り、川から上がる。
「こんなに濡れてたら体が冷えちまう。祥瓊や鈴たちも心配しているな、きっと」
「心配、しているだろうか」
「当り前だ。友を案じない友のいるものか」
力強く握り返された手に、陽子はほうっと息を吐いた。
「そう、だね。そうだった」
今度は陽子から繋がった手を強く握り、横を歩く楽俊に微笑みかける。
「迎えに来てくれて、ありがとう」
そうして二人は、日の暮れた森の中を歩いていく。
遠くに浮かぶいくつかの明かりに、もうすぐ森を抜けることを知ると――。
深い水底から引き上げられるかのようにして陽子は目を覚ました。
体に回された腕に視線を上げると、目蓋を閉じた楽俊の顔。
――そうだった。昨日はあのまますぐに寝たんだった。
ずらした視線の先、窓から見える空に夜明けの気配はまだない。そうと知った陽子は再び目を閉じた。
――金魚の夢はもう見ない。
それは確信だった。そして、朱色の鰭を白昼夢のように見ることもまた。
けれど、それをどこか残念に思う自分がいた。
手に入らなかったこと、逃がしたことを悔やんではいない。けれど、少しばかりの未練があった。それほどまでに、朱色の鰭は美しかった。
ゆらゆらと、光の中を揺らぐその朱色は――本当に美しかった。