愛しい人が眠るまで



 好きだと伝えてから楽俊との関係は恋人と呼ばれるものになり、今までと大差はないといえども、二人の時間を以前よりもずっと大切に過ごせている、と陽子は思う。
 けれど、時折楽俊の見せる、双眸の奥底で揺らぐものが何なのかわからず、その度に見なかった振りを続けてきたのは、どんな顔をすればいいのか、何を言えばいいのか、楽俊が求めているものが何であるかが全く解らなかったからだ。
 しかし、その陽子にしても夜の牀、褥の上から、おいで、と言われてしまえば、何が待っているかすぐに理解できた。というよりも、そのときになって初めて、楽俊の揺らぎが何であるのかを悟ったのだった。


 楽俊が何かを強いることはないと、本当の意味で陽子が嫌がることはしないと、確信に似たものが陽子にはある。
 だからといって、恐れがないかといえば嘘だ。今まで見たことがないような楽俊が怖くてならない。楽俊のいる場所だけ、空気が違う。揺らぎに染まった視線が刺さるように向かってきている。それら全てが、怖くて仕方がない。
 逃げ出したいと、この場から立ち去ってしまいたいと強く思う。けれど、足は呪いをかけられたかのように動かない。
 自分の意思とは反対に動かない体に、伏せた目頭がじわりと熱くなるが、決して泣きたいわけではない。陽子自身、どうしたいのか、どうすればよいのか全くわからないのだ。
 楽俊は陽子自身の意思で来ることを望んでいる。ただ、それだけは、わかっていた。
 ともすれば、しゃくりあげてしまいそうなほどに荒れた呼吸のまま、牀の一歩手前まで進み、立ち止まる。
 陽子は伏せていた視線を上げ、ちらりと楽俊の顔を見た。楽俊はただ小さく笑っただけで、陽子の視線を受け止める。
「陽子」
 差し伸べられる手に、陽子は戸惑った。それを見透かしたように楽俊の声が重なる。
「逃げるなら、今だ」
 逃げる、という言葉に陽子は反射的に首を横に振る。
 楽俊から逃げる――それは陽子の行動理念の中にはありえないことだ。しかし、楽俊は優しく諭すように、この手を取れば、もうその機会はないと繰り返した。
「逃げる、理由がない」
 半ば涙声で陽子が言うと、楽俊は少し困ったような顔をして笑う。その理由が、陽子にはわからない。
「どうして、そんな顔をする……?」
「いや――悪い大人だな、おいらは」
 楽俊の手が陽子のそれを捕らえ引くと、ふわりと赤が揺らめいた。
 牀の上にいる楽俊の膝元まで引き寄せられた陽子は、その腕の中から戸惑いも露わに楽俊を見上る。楽俊は優しく、しかし刃のような眼差しでこれから陽子に何をするかを説明した。
「まず、ここに触れる」
 楽俊の指が押さえたのは、陽子の唇だった。
「……今、触れてる、よ?」
 唇を動かすと、楽俊の指の腹が擦れてくすぐったい。それは楽俊も同じようだった。指はすぐに唇から離れ、肌をなぞるようにして顎へと移った。もともと見上げるようにしていた顎の下をその指が持ち上げるように支える。
「そうじゃなくて、こうするんだ」
 視界がぶれたのは、楽俊の顔が近付いたせいだと気付いたのは、唇が重なった後のことで、間近に迫った黒の双眸に陽子は狼狽えた。それを知ってか、楽俊の唇は深くは求めてこずに、耳元へと移動した。
「それから、被衫を脱がせ――」
 衣擦れの音と共に吐息が耳元に吹き込まれ、陽子は思わず身を震わせた。帯が緩められ体の線を辿る感触に震える体を、楽俊の腕が抱き寄せる。
「陽子の全てに触る」
 陽子にとっては無慈悲とも思える答えを囁く声は、あくまでも穏やかで優しさに満ちていた。
「……全て?」
「内も外も全部だ。――怖くなったか?」
 楽俊の刃のような視線が曇ったのを見て、陽子は揺らぐ視界を手の甲で擦った。明瞭になった楽俊の姿に怯みながらも、ぐっと目に力を込める。
「怖く、ないよ」
 自分に言い聞かせるように、陽子は固い声で呟いた。
 楽俊は怖くない。だから楽俊が触れる手も怖くはない。けれど、こうして間近に視線を合わせたままでいるのは、ひどく勇気が要った。
 体が震えるのも、それを堪えようと己を叱咤しなければならないのも、恐怖とは違っていた。違うのだと、体の奥底から声がする。
 しかし、何故そのようになるのかわらないまま、陽子はそれに耐え、楽俊に顔を寄せた。
 瞼を閉じる瞬間、陽子の瞼の裏に残ったのは、驚いたような楽俊の顔。
「怖くなんてないよ」
 楽俊は陽子の全てに触れると言う。それは同時に陽子も楽俊のことをもっと知れると同義ではないのだろうか。そこに思い至ると、胸の内の震えは止まった。
 唇を離して宣言した声は、さすがに緊張で震えていたが、楽俊がそれをからかうことはない。
 ふわりと微笑んだ楽俊の手が、陽子の頬へと伸ばされ唇が寄せられた。


◆  ◆  ◆  ◆



 声をかけてから部屋に入ったところで、陽子はふと足を止めた。
 返事がなかったので、いないのかとも思ったが、楽俊はそこにいた。というよりも転がっていた。
 牀の上で足を投げ出す格好で、仰向けの大の字になっている。いつも温かな双眸は閉じられ、豪快な格好とは裏腹の静かな呼吸に、陽子はすぐに眠っているのだと気付く。
 躊躇いはあったが、折角の二人きりという空間であるのに、すぐに去るのも寂しくて、足音を忍ばせ、そっと近付く。
 ――寝顔を見るのは初めてだ。
 陽子は宝物を見つけた子供のように目を輝かせ、楽俊の顔のすぐ傍らに肘をつき、眠る彼を見下ろした。
 そういえば、じっくりと楽俊の顔を眺めるということも初めてだった。
 いつも穏やかな楽俊だが、こうして見ると男らしく、随分整っている。大人の――男の人の顔だ、と改めて実感させられ、頬が熱くなる。
「そんなに見られてると、穴が開きそうだな」
「……!」
 不意に唇が動いたかと思うと、ついていた腕を、楽俊のそれに捕らわれていた。
「楽俊! 狸寝入りだなんて……!」
「目が覚めちまった。陽子があんまり見るから」
 上体を起こし、欠伸をした楽俊は、音を立てて首を回すと息を吐いた。
「寝足りねぇんだ」
「……ごめん」
 自分のせいで起こしてしまったのだと頭を下げてしまった陽子は、楽俊の口元に浮かんだ笑みを見ることができなかった。
「それなら――」
 捕らわれていたままの手を引かれ、陽子は声を上げる間もなく楽俊の胸元に倒れ込む。
「楽俊!」
「耳元で声を上げるな。……陽子も付き合ってくれよ、昼寝に」
 言うなり、楽俊は陽子の頭を腕に抱え込み、また横になってしまった。その腕の中から抜け出そうにも、抱え込まれて動けない。陽子の頭の下には楽俊の二の腕があり、何故かどきりとする。
「楽俊」
 離して、と目線を上げ、すぐ側にある楽俊の顔を窺うと、何と楽俊は再び寝息を立て始めていた。
「――――」
 起こしてしまうのが忍びない穏やか寝息に、陽子は文句を言うことも暴れることもできず、黙り込むより他に術はなかった。
 楽俊はいつもそうで、微笑み一つ、仕草一つで陽子の動きを止めてしまう。それが不思議でならない。
 そして、思う。どうしてそれが楽俊だったのか、と。
 別の人間であれば、今の自分とは何かが違っていたのだろうか、とも。
 小さく息を吐き、意外と逞しい腕にそっと頭を預けてみると、頬に直接楽俊の体温が触れる。
 伝わる体温は陽子のものよりも低く、心地よいそれに、ゆるりと体の力が抜ける。
 この状態はひどく恥ずかしいのに、同時にとても安心できて、何故だろうなどと考え込んでいるうちに、陽子の瞼も降りたまま上がらなくなってしまった。

 夜が来て、朝に夜が追いやられ、再び夜が来て、月と星が太陽と取って代われば、楽俊は雁国へ行ってしまう。帰ってしまう。
 長いようで短かった蜜月は終わりを告げる。
 けれど、それまで二人で甘い夢を見よう。

 ――もう少しだけ。





初雪草・・・好奇心