優しい嘘
冬のある真夜中、楽俊はふと目が覚めた。
先程まで腕の中で眠っていた恋人の体が、びくりと緊張したせいだとすぐに気付く。
視線を下げると、白い顔の陽子が楽俊を見つめていた。
月の光に照らされてか、いつもよりも青白い顔色に楽俊の眉間に自然と皺が寄る。
「陽子、どうした?」
問いかけても返事は返ってこない。楽俊はゆったりと手を伸ばし、
「どうした? 大丈夫か?」
背中をさすってやりながら声をかけた。
「怖い夢でも見たか?」
「……」
「陽子?」
「楽俊は、私のこと好き?」
「え?」
突然の質問に戸惑いながらも、真摯な眼差しを向けられた楽俊は、
「あぁ、好きだ」
と、正直に答える。
「どれくらい?」
「ん?」
どれくらい、か――と楽俊は言葉に詰まってしまった。
陽子へと傾ける愛情、想いをどう表せばいいのか、わからない。この世の何とも比べられないほどであるのは確かだけれど。
思考の水にに沈みかけた楽俊の耳に、囁くような声が聞こえた。
「私のためなら、命かけられるほどに?」
対の翠がゆらりと揺らぐ。
陽子がどのような言葉を求めているのか、楽俊には皆目つかなかった。しかし、かけられるか否かと、問われるならば、諾である。
「あぁ、かけられる」
何気なく答えを返したつもりだった。
しかし。
「……嫌だ」
「陽子?」
楽俊の答えを見いた途端、楽俊から見てはっきりとわかるほど、青白かった陽子の顔からさらに血の気が引いていった。蒼白を通り越して、蝋のような白さである。
震える双眸は楽俊を通り越し、別の何かを見つめているかのように彷徨い揺らぐ。
「私のために……。目の前で……」
「陽子?」
その唇は震え、目は虚ろで、幼子のように楽俊の着物をこれでもかという力で握り込む。
「や……嫌だ……」
「落ち着くんだ、陽子。大丈夫だから。落ち着くんだ、陽子」
抱きしめ、赤の髪を繰り返し撫でて言い聞かせていくうちに、陽子の強張りは徐々に和らいでいった。
「落ち着いたな?」
「うん。……ごめん」
「謝らなくていい。どうした? 怖い夢を見たのか?」
それはまるで、赤子に心臓の音を聞かせる母親のように優しく。
「――私に向かって剣を握り締めた誰かが走り寄ってきて……避けられないと、思わず目を瞑ったんだ。でも、痛みが全く訪れなくて――目を開けたら、楽俊が……私の代わりに……っ」
「陽子」
「なのに、楽俊は私に大丈夫かって――自分は血だらけで剣が突き刺さっているのに、私に痛くないか、って……」
「……」
「どうしてって言ったら、私のことが好きだからって――私は嫌だ、そんなの……嬉しくないのに!」
「陽子――泣くな。な?」
楽俊は額に口付けると、背中をしっかりと抱いた。
陽子は怖れているのだ。自分のために誰かが命を落とすことを。そして、それが耐え切れないのだ。命の大切さを、重さを知るがゆえに、愚かな自分にそんな価値はないのだと。
――慶王のために、死んでほしくないのだと。
目の前で散っていく命を知っているから。自分のせいで失われた命を目の当たりにしているために。
即位の際に慶王である陽子のために、文字通り矢の盾となった兵士。
かつての内乱で御璽を抱いて亡くなった少女。
彼らは、少女である陽子の奥深い核部分に、大きな傷を伴って深く刻まれた。
その傷はきっと、陽子の命果てるその瞬間まで癒えることはないのだろう。ぐずぐずと心を蝕み、何事かあるごとに、何気ないふとした瞬間に陽子を深い思考の海に引き摺り込むのだろう。例え、彼らが生前に陽子の無事を祈っていたとしても。
そして、一番近しい場所にいる存在なら、その苦しみはなおさらなのだろう。
けれど夢の中の自分の行動も解り過ぎるほど解ってしまうのだ。
――現実に、それが起きたらきっと。
「楽俊……約束してほしいんだ」
「約束?」
「私より自分を守る、って」
「陽子」
「私を置いて死んだりしないって」
必死な顔で縋ってくる陽子に、楽俊は笑顔を見せ、その頬をふわりと包んだ。
「約束する」
――おいらは嘘をつく。
「もし大変なことになっても陽子とおいら、二人とも助かるよう努力する」
――この震える愛しい獣を安心させるために。
「二人とも助かることができないなら、そのときは……」
――瞳を潤ませるこの恋人のために。
「おいらは自分の命を優先する」
――ありえない、嘘を。
この世の何よりも愛しく大切な少女は、楽俊の嘘に安堵の息をついた。
「私は、絶対残されたくないんだ」
「あぁ、わかってる」
そう頷いて肩を抱き寄せられると、陽子は嬉しげに目を閉じた。
おいらは嘘をついた。
陽子を安心させるためだけに。
約束の言葉が嘘だとわかったとき、陽子はどれだけ楽俊を恨むだろう。
それでも、楽俊は嘘をつく。
それは――本当は陽子のためなどではなく。
失いたくない、悲しい思いをしたくない、自分のための嘘。
それが、おいらの我が侭でしかないことはわかっているけれど。
いずれ来るそのときは、泣いて怒鳴って恨んでくれていい。
許してくれとは、決して言わないから。
だから今は、穏やかな眠りを。