ただ、君を愛してる
やっとのことで最後の論文を書き終えた楽俊が、息をつきながら筆を硯に置いたそのとき、背中に温かな何かが圧し掛かってきた。
柔らかな髪の毛が首筋をくすぐり、香りがふわりと鼻を掠める。
楽俊はふ、と笑みを零した。
「どうした、陽子?」
楽俊の背中に圧し掛かってきたは彼の愛しい少女。
声をかけると、少女は躊躇いがちに首下に回された手に力を込め、そして、額を楽俊の首筋にすり寄せてくる。
幼子のような陽子の行動に、笑みを深くした楽俊は背後にある彼女の頭を軽く撫で、少し離れるように言った。
「陽子、少し離れてくれないか?」
「……ん」
おずおずと陽子は離れたが、手はまだ彼の肩の上に置かれたまま。
その手を取り、椅子ごと体の向きを変えると、少女は宙へ視線を彷徨わせていた。
気まずいのか、何なのか、とりあえず挙動不審だった。
「陽子?」
「……」
「一体、どうしたんだ?」
「……」
「陽子」
「う、ん……」
座ったままの楽俊が立っている陽子の両手を握った状態で、二人は向き合っている。
端から見れば何をやっているのかと不審に思われそうではあったが、幸いこの部屋には二人しかいない。
そして、問いかけても、何か言いにくそうに視線を彷徨わせるばかりの少女に、楽俊は少し陽子から視線を外して考え込む。
――さて、どうしようか。
そういえば、論文を書き進めているときから、背中に視線を感じはしていた。
陽子が楽俊を訪れたとき、ちょうど論文の終わりにさしかかっていたため、楽俊はある提案をしたのだ。
そこで、陽子さえよければ部屋で待っててくれてもかまわない、という楽俊の申し出に首を縦に動かした陽子は大人しく待っていたのだ。
けれど、書き終えて筆を置いた瞬間に、彼女は――。
自分の考えの中に入り込んでいた楽俊は、不意に視界が赤に埋め尽くされたことを、肩にかかる重みと共に気付いた。
楽俊が考え込んでいる間に、今度は正面から、立っていた陽子が屈み込むようにその額を楽俊の肩に置いたのだ。
そして少しだけ、擦りつけるように首を振る。
「楽俊」
小さな声だった。囁くような、小さな声。
――ああ、そうか。そういうことか。
楽俊は握り締めていた陽子の手を離し、かわりに彼女の腰を引き寄せ脚を抱え上げ、椅子に座ったまま膝の上に乗せた。
すると彼女の手が楽俊の腰の辺りに伸び、着物をそっと握り締める。
胸元に頬を寄せてくる陽子の髪を梳きながら、楽俊は笑った。
彼女は甘えたかったのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
時々、ふと誰かに抱きしめてしくなるときがある。
誰でもいいわけではなく、私の大好きな、そして私を好きだと言ってくれる――そういう人に、抱きしめてほしくなる。
それはただ、私のことを好きでいてくれてると、確認したいだけ。
確認して、安心したいのだ。私は彼に愛されている、と。
勝手なことだと、我が侭だと、自分でもわかっている。
けれど、時々どうしようもなく寂しくて、不安で、胸の奥に重りがあるような感覚に襲われる。
そういうときには、抱きしめてほしくなるけれど、だからといってそれを口にすることなど簡単にはできない。
――抱きしめてほしい、なんて。
温かい腕に抱きしめられて、広い胸に顔を埋め、私はそこから香る匂いを思いきり吸い込んだ。
いつも楽俊が書籍保存のために焚いている、白檀を主とした防虫香の匂い。
香るそれが実用的なものの名残だと知ったときは笑ったけれど、それが安心する。
それが、楽俊の匂いだから。
とても――とても。
◆ ◆ ◆ ◆
「陽子」
時々こうやって、楽俊の愛しい少女は彼に甘えてくる。
腰の辺りにあった彼女の手は、今は彼の首へと移動していた。
同じ――なのかもしれない。
時折、楽俊はどうしようもなく陽子を抱きしめたくなる。
抱きしめて、自分の腕の中に閉じ込め、額に、頬に、口付けて――愛している、と告げたくなる。
愛しているから、だから自分のことも愛してほしいと。
彼女から香る甘い匂いに酔いながら現れた耳を甘噛みすると、陽子は小さく声を上げるが、腕を放すことはない。
「陽子」
もう一度、名を呼ぶ。
「好きだ」
自分にだけ甘えてほしくて。
そして実際、自分に甘えてくる少女が愛しくて。
離したくはないのだ、と伝えたいけれど、伝えてしまえば愛しい少女を困らせるのは明らかで。
「陽子」
だから、愛しい想いだけを口にする。
「愛してるよ」
耳元で囁くように告げると、陽子は震える。
そして、揺れたその髪と首筋から、また甘い芳香が立ち上って楽俊の鼻をくすぐり、楽俊は抱きしめる腕に少しだけ力を込めた。