陽が西から昇ったら



 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
 よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。


 近き遠い冥府の底で、血肉の果実を嚥下した。
 蜜の滴る赤き実を、咀嚼する度、淀みは溜まる。
 濁り満ちた体に、力が溢れる。
 それはどんな生き物だ。

 ――生き物?

 化け物の間違いだろう。


◆  ◆  ◆  ◆


 偶然通った回廊が僅かに明るくなり、尚隆は顔を上げた。視線の先には、東の雲海から金の光が射し込み始めている。

「これは主上、夜遊びからお帰りですか」
 断定的に問う男は微笑んでいたが、どこか薄ら寒いものを纏わせている。
「ま、そんなところだ」
 そう言いながらも、主上と呼ばれた男は顔を出し始めた太陽から視線を逸らさない。
 さすがに何かを感じたのか、男は微笑みを僅かに歪めた。
 尚隆の視線の先では染められいく白い布であるかのように、雲海が光の色――金色と赤の交じり合った朱金へと姿を変える。
 空一面に、太陽が燃えているかのようだった。空を焦がし、この世に生まれ出た赤子のように勢いよく、そして鮮やかに燃え上がる。
「……主上?」
 足を止めたまま動こうとしない尚隆に、男が訝しんで声をかける。珍しくもない朝日に、何をそれほど気を奪われているのか。
 尚隆は男の呼び声に背を押されたように、肩越しに振り返る。
 逆光になりその顔は見えないが、視線は見えぬ力となって男の足を止めさせる。
 尚隆は、何故かぎくりと強張った男から視線を外し、再び朝日に視線を戻した。
「まるで赤子の産声のようだ」
「……何故、そんなことを?」
 呆れたというには僅かに険の強いものを含ませた男の物言いに、尚隆は鼻先で笑い、節の目立つ長い指先が天をなぞるように動く。
 その指先は鍛え上げられた戦士のものであるのに、まるで舞いの一部であるがごとく優雅に動く様に、思わず視線が奪われる。
 尚隆がなぞるのは、燃え上がる太陽と、夜の名残を漂わせる東の空の境界線。
 陰陽が混ざり溶け合い、それでも互いを主張するぎりぎりの境目だった。
「美しいが、じきに消える。朝に追いやられてな」
「当たり前のことでしょう」
「そう、当たり前の――世の理だ」
 細めた双眸をそのままに、もう一度、男へと振り返る。
 刻々と移りいく朝日は輝きを増し、それに追いやられるかのように、夜は淡い影を残すだけだ。
 先ほど見せた陰陽の色彩は消えうせ、眩しく光を放ち始めた世界で、尚隆の表情はさらに見えなくなる。
「――つまらんな」
 世界の目覚めを正面に、真意の読めない恐ろしく透明な声で尚隆は言った。
「つまらん」


 それは東の国に、新たな主が据えられる以前の話。


◆  ◆  ◆  ◆


 楽俊が長く続いた試験から解放され、しばしの安寧を貪るために牀へ横になろうとしたときだった。
 男が現われたのは。
「よう、楽俊」
 例の如く窓から体を室内へと滑り込ませ、男は女好きするような笑みを浮かべた。
 男の名を小松尚隆――雁州国王、延その人である。
 その姿を認めた瞬間、ひどい虚脱感が楽俊を襲った。
 ここ最近、延麒の訪れがなかったのも、今このときのためだったのだと瞬時に理解する。
 延王の手中にある陶器で作られた器の中には、酒精の強い酒が入れられているだろうことが、漂ってくる匂いでわかる。
 離れた場所だというのに、まるで鼻先にあるかのような香り。それも、味合わなくてはもったいない、極上の。
 延王は笑みを満面に押し出しており、その目的が、楽俊を溜まりに溜まった疲労のせいで泥酔させることであるのは明白だった。

 杯を空けないようにしていた楽俊へ、今のお前では手の出せないものだから今の内に飲んでおけ、と尚隆が勧めるものだから、楽俊は杯から手を離す暇もなく、次々に満たされる杯を飲み干した。
 枠の楽俊も、極度の疲労の中で勧められる酒に酔い、普段より弱冠本音が零れだしてきた頃、尚隆は取り留めのない話の中で言った。
「太陽は東から昇り、西へ沈む。当たり前の――この世の理だ」
 変化のない、決まりきったつまらん事象だとは、思わんか。
 そう続けた尚隆に楽俊は首を傾げ、
「けれど、決まりきったことでなければ困るでしょうに」
 と、苦笑した。
「まぁ、そうだな。だが、それが当然の世で生きているからだ。日々変化するものであれば、人はそれに対応すべく何らかの術を生み出す。ゆえに、決まりきっていなくては困るということはないな」
 さぁ、どうする。と、言わんばかりの尚隆の顔に押され、楽俊は尚隆が入ってきた窓の外を見やる。
 星が瞬く夜空には、曲刀のように鋭い三日月が仄かな光を放っていた。
「……では、こういうのはどうでしょう。太陽は東から昇り西へ沈むのが好きで、だから、毎日飽きずにそれを続けられるのだと――子供っぽい考えでしたね」
 赤い顔をさらに赤く染めた楽俊に向かい、尚隆は声を上げ、大きな声で笑った。

 それが、その夜の楽俊の最後の記憶である。


 翌日。牀の上で目が覚めた楽俊は、常にはない頭痛を感じながら、尚隆の突然の訪問はどうしてだったのだろうと内心首を傾げた。その心中は、すぐ後に吐き出された深い溜め息から推し量るべし。


◆  ◆  ◆  ◆


 魚は水に飽かず、魚にあらざればその心をいかでか知らむ。
 鳥は林をねがふ、鳥にあらざればその心を知らず。


 怒気を放つ朱衡を背後に、尚隆は執務をこなしていた。
 楽俊が潰れると、その体を牀へと放り込んだ後、入ってきたのと同様にして出て行った尚隆は、帰ってきたことをどこからか嗅ぎつけた朱衡ら三人によって執務室へと連行されたのだ。
 単調で退屈な玉璽を押すという行為の中、尚隆は楽俊と共に過ごした時間を思い出す。
 学問に関すること、政や法律に関しては自分の考えは、酔ったせいか普段よりも多弁であったが、隣国の女王のこととなると、途端に口数の減る様がおかしかった。自分一人のことではないからか、核心に至るようなことは決して口にしなかった楽俊の青さに、尚隆は人の悪い笑みを浮かべる。
 ――あれは、いい種になる。これから二人をからかうには、いい話題だ。
 そこまで考えて、尚隆の玉璽を押す手が止まった。
「主上?」
 朱衡の声に再開するも、浮かんだ考えに首を傾げる。
 ――これから?
 そして知る。
 結局、いつもと変わらぬ明日が来ることを、当たり前のように感じていることを。
 ――なるほど。
 太陽に関する楽俊の考えに、久し振りに声を上げて尚隆は笑った。
 彼が語ったのは、酔った中での子供だましにすぎない考えであったが、それは確かに尚隆の虚を突いた。それも、目から鱗が落ちるような感覚。
 人外の如くに永らえてなお、尚隆から見れば若造の、それも学生である彼に気付かされる。

 ――だから、おもしろいのかもしれん。
 
 この世に常ならんものなどありはしない。全ては無常であり、刻々と変化していく。
 それは、俺の感覚であったり、半獣の青年と隣国の王の関係であったり。
 同じように見えて、けれど決してそれは同一の、不変のものではないのだ。

 ――今しばらくは、退屈するまいな。いい拾い物をした。

 にやりと笑う尚隆の頭の中で、既に次の逃走計画がなされつつあるその頃。
 ぞくりと楽俊の背筋を走るものがあったのは、ただの偶然である――と、思いたい。



 この世の全ては理の内にあり、ただ一つの例外もなく理によって生かされ、支配されている。
 だが、愛されているのだとすれば、それは祝福なのかもしれない。


◆  ◆  ◆  ◆


 ゆく川の流れは絶えることがなく、しかもその水は前に見た、もとの水ではない。
 淀みに浮かぶ泡は、一方で消えたかと思うと一方で浮かび出て、いつまでも同じ形で留まり続ける例はない。

 魚は、水の中に暮らして飽きないが、魚でなければ、その心は理解できまい。
 鳥は、林の中の暮らしを望むが、鳥でなければ、その心は実感できまい。




安楽な生活・・・ゼラニウム