花のこえ
不意に、視界が反転した。
家に向かう小道を見ていたはずなのに、目の前には祥瓊とその背景に広がる回廊。思わず気の抜けた陽子に、祥瓊が声をかけた。
「主上。お話があります」
気付くと、祥瓊の手がしっかりと私の肩を掴んでいる。おかしな方向転換は、力ずくで振り向かされた結果だったのだと、それを少し不快に思いながら陽子は祥瓊を見つめた。
「どうかしたのか、祥瓊」
「どうかしたのって――何度も呼んだのよ、聞こえなかったの?」
首を傾げた陽子に、祥瓊は眉を顰めた。怒っているのではない。心配しているといった様子だ。普段ならすまなく思うところなのだろうが、今の陽子にはあまり関心がなかった。
武人であるにもかかわらず、祥瓊の接近に全く気付かなかったことと同様に、今の陽子には、周囲の何もかもに関心がなかった。失ったわけではない。ただ、今は全てにおいて優先すべき大事なことがあった。
「そうか。すまない、気付かなくて。急いでいたものだから」
それでも素直に謝罪の言葉を口にすると、祥瓊はようやく肩を掴んでいる手から力を抜いた。
「いえ、いいのよ――急いでいる、というのは、楽俊のことね?」
祥瓊は軽く溜め息をついた。
「体調を崩したって聞いているけど」
「うん。昨日の夕方から熱を出して、寝てる」
陽子は半ば上の空で相槌を打った。頭の中は二人の部屋の風景で埋め尽くされていた。
いつもであれば、南向きの窓から降るような日の光で明るい臥室は、昨夜、陽子がひいた布のせいで薄暗かった。朝の弱い光が淡い青の布地を通して差し込む。裏庭の木の陰がゆらゆらと揺れているが、葉擦れの音は部屋まで届かず、静かな朝だった。
いつもよりも早く起床し、人が来る前に、誰の目にも留まらぬよう注意を払いながら陽子は家に向かった。寝ているだろう彼を起こさぬため、静かに開けた扉の隙間から臥室へと滑り込み、足音を忍ばせて近付いた。しかし、いくらも進まないうちに牀の衾が動いた。
「楽俊」
そっと声をかけると、衾褥の中から白い手が出てきた。
実際は、楽俊の手は白いとは言い難い。適度に太陽の光に焼けた肌の色をしている。しかし、薄暗い部屋の中でゆらりと動かされた手ははっと息を呑むほどに白く浮き上がって見えた。
いかにも億劫そうな動きで、近付こうとする陽子の動きを白い手が遮り、押し返すような動作を繰り返す。
来るなという意味なのは、考えなくてもすぐにわかった。
しかし、陽子は気付かないふりをして枕元に擦り寄った。同時に握りしめた手は、いつもよりずっと熱い。
「大丈夫?」
覗き込んだ顔は僅かに赤く染まり、また、眉間に皺を寄せて苦しそうな息遣いをしていた。
「……」
陽子の手を放そうと楽俊の手に微かに力が込められ、熱で潤んだ黒の双眸が陽子を見返していた。
「――」
衾褥の中で、微かに首を振る。それだけで眩暈がするのだろう、目を閉じて眉を顰めた。そのまま陽子の手を放し、手の平で押しやる仕草をした。
「楽俊」
「……」
その目蓋は硬く閉じられている。
「……わかった。行くね」
そう言うと、安心したように深い息をついた楽俊の目元が緩んだ。
「おとなしく寝てて。薬を置いていくからちゃんと飲んでね。それから、鈴が粥を持ってきてくれるはずだから、それも食べて」
陽子が言い終わると、頷いたのか頭が僅かに動いたが、楽俊の目蓋はもう開かれなかった。陽子は楽俊の手をそっと衾褥の中に仕舞い込み、冷たい空気が入り込まないよう体の周りをそっと抑えた。楽俊は身動き一つせず、されるがままになっている。
「じゃあ、また来るけど――仕事はちゃんとするから安心して」
囁いても、返事はない。
陽子は来たときと同じように足音を忍ばせて楽俊から離れた。騒がしくして、楽俊を煩わせたくはなかった。それでも、扉を閉めるときは寂しく、未練がましく振り返ってしまった。
衾を顎まで被った楽俊は扉側を向くよう横になっており、黒い双眸を開いて陽子を見ていた。力のない視線が陽子に注がれる。二つの瞳があまりにも真っ黒で、戻りそうになった足を陽子は何とか留めた。
「……」
重いであろう体を動かし、衾の上に顔を出した楽俊は、音のない声で陽子に
「いってこい」
と、言った。
「……上。……主上――陽子!」
祥瓊の声に、陽子ははっと我に返った。
「大丈夫なの、あなた」
祥瓊が心配そうに陽子を覗き込む。陽子はぼうっと祥瓊の顔を見返し、それから辺りを見回した。内殿から出たばかりの回廊だった。先程、目の前の彼女に呼び止められた場所。
陽子はそっと右手を握りしめた。手の平が熱い。楽俊の体温だ。しかし、ここはあの臥室ではない。
「……」
――祥瓊が私を見つめて何か喋っている。
よく聞き取れず、陽子は首を傾げた。熱い手の平を耳に押し当てる。
「……どうしたの、陽子?」
――今度は、ちゃんと聞こえた。
陽子は小さな声で応じる。
「ごめん。よく聞こえなくて」
「聞こえない? それは、どういうこと?」
「さあ……よくわからないけど、音がくぐもって聞こえて――水に潜ったときみたいだ」
祥瓊は顔を顰めた。手の平を陽子の耳の下に押し当てる。
「……変ね、楽俊の風邪をもらったわけではないでしょうし――喉も腫れていないようだわ」
――風邪をもらった? 私が、楽俊の?
そんなわけがあるはずないと知りつつも、そうであったらいいと陽子は思った。もし、そうであったならば、楽俊をあの薄暗い部屋で一人きりにせずにすむ。
「とりあえず、正寝に戻っていて。瘍医を呼んでくるから」
「わかった」
陽子の身は、陽子だけのものではない。玉座に座する者の身は、いつだって国とそこに住まう人々のためにある。陽子は楽俊の眠る家があるだろう方向へ視線をやりながら返事をし、祥瓊が何か口にする前に踵を返した。
結局、何の問題も見られなかった。しかし、「けれど」と、瘍医は続けた。
「おそらくとしか言いようがありませんが、同調なさっているのでしょう」
「同調……」
誰と、とは問わなかった。瘍医には楽俊をも診てもらっている。
「あの方を心配されるあまり、主上の御心が同調なさり、健康な御体との間で均衡が崩れてしまった結果かと」
瘍医は柔らかな笑みを浮かべて陽子を見つけていた。
「あの方を、本当に大切に想われているのですね」
――薬が効いて、熱が下がっておいででした。
正寝より退出する際に瘍医はそう口にした。明日の朝までには完治するだろう、とも。
陽子はそのまま、正寝から家へと早足で向かった。いつの間にか、息が乱れるほどの速さだった。
家に着く頃には、僅かではあるが額に汗が滲んでいた。気が急いたが、家の脇にある水場へと立ち寄る。冷たい清水を手の平で掬って顔を洗う。ついでに一口含むと、ようやく息も落ち着いた。
季節は名ばかりの春。水は冷たく、辺りを照らす午後の光はあまりにも柔らかい金色だった。
水面に映る自身の顔が、流水の動きでゆらゆらと歪み、陽子はそっと目を閉じた。
「今回のことは他の方々には伝えずにおります。ただの睡眠不足だと」
瘍医の突然の言葉に、陽子は首を傾げる。
「主上の体調の変化の原因があの方であると、知られてはなりません」
突然、堅くなった声に陽子ははっとする。
「このことが知れれば、主上に未だ不満を抱く者達の格好の餌となりましょう」
気付かれたのが女史でよかったと、瘍医は続ける。
陽子はぐっと唇を噛みしめ、しかし、すぐにそれを解いた。代わりに、爪が食い込むほどに手の平を握りしめた。不甲斐なく、情けないのは、己の弱さ。
「どうか、お気を付け下さい」
瘍医が二人のことを心から案じてくれていることを知っている。彼との付き合いも長い。賓満をつけずに剣の訓練を行ったときは景麒と二人して小言を言われたこともある。
心配してくれているのだ。先王の――予王の二の舞にならぬようにと。そして、王ではない陽子自身の幸福を。
大きく息を吸った後、深く息を吐き、陽子は瞼を開ける。ふと足元に一際鮮やかな黄色を見つけて、陽子は腰を屈めた。名前も知らぬ、小さな黄色い花が咲いていた。
そっと扉を開くと、やはりすぐに衾が動いた。こちらを向いた楽俊が、微かに笑む。
「おかえり、陽子」
朝に見たときよりも赤みの引いた顔に、陽子はそっと胸を撫で下ろした。
「ただいま。ちゃんとおとなしく寝てた?」
「寝てたさ」
陽子の問いかけに苦笑して答える楽俊は、朝に比べずっと具合がいいようだ。瘍医が言っていたように、明日には元に戻れるのだろう。
「熱も、引いたみたいだ」
「ああ。でも、冷たくて気持ちいい」
頬にあてた手をそのままに、楽俊はどこか嬉しそうに目を細め、息をついた。
その枕元に屈み込み、衾の端に頬を押し当ててじっとしていると、伸ばされた手が陽子の頭を撫でた。熱は下がっているようだが、いつもよりも暖かい――楽俊の手。指先で陽子の髪をいじりながら、飽きずに撫でてくれる手。そうされていると、楽俊がいることを実感できた。
ふと思い出して、ずっと握りしめていた片手を開いた。乱暴に千切ったせいで、既に元気のなくなっている小さな黄色い花を、楽俊の衾の上に並べる。
「何だ?」
「お見舞いだよ」
「……この花の名前、知ってるか?」
「いや。目に入って、綺麗だと思ったから」
「そうか」
楽俊は熱のせいではない赤に僅かに頬を染め、笑った。
「ありがとう、陽子」
「どういたしまして」