笑顔の記憶



 おいらはその人物を知らない。彼女が大切に思う、その人を。


 楽俊がそれを見つけたのは、ある日の夕方だった。

 その日楽俊は、慶国を訪れていた。所謂、恋仲と呼ばれる前からも続いているその訪問は、慶国側と楽俊の双方にとって珍しいことでも何でもない。特に二人の想いが通じた頃からは、それがお互いの中で日常化しているような錯覚さえ覚えるほどであった。
 陽子が造らせた小さな家は簡素で、しかし物がないというわけではなく、所々に生活感溢れるものが見え隠れしている。陽子が吟味しながら集めた道具や装飾物は、素っ気ないものばかりであるのに、温かさを伴い、不思議とその空間に溶け込んでいた。
 二人が多くの時間を過ごす、円卓と二つの椅子のある房室。卓と椅子は市井に降りたときに共に使うものだからと、二人で買い求めたものだ。それまでは、榻に座って茶を飲んだりしていた。台所もあるにはあるが、普段使用しているわけではないらしく、少しばかり生活感に欠けていた。
 つくづく、と楽俊は思う。彼女は己の給金を、何に使っているのだろう。いくら財政が厳しいとはいえ、仮にも王であるのだから決して実入りが少ない訳ではない。
 陽子が必要とする食費や衣服、その他の雑費のほとんどは国の予算から出される範囲のものであり、倹約というよりも、必要以上のものを欲しない彼女が娯楽に当てるとは考えられない。勿論、二人で過ごすことの多い家に置いてあるものはその娯楽に当たるのだろうが、さほど値の張らないものばかりだ。
 共通の友人である少女から聞き及んだところ、収入に対する出費はほんの僅かで、また、その用途もわからぬらしい。通常ならば、将来のためと思わないでもないが、陽子の立場からいってそれはない。
 それらについて尋ねることは下世話な、失礼な気がして結局わからぬままだ。

 それを見つけると同時に不思議に思った。普段の陽子からは想像できないものだと感じたからだ。
「楽俊、どうしたの?」
 いつまでもその場から動こうとしない楽俊に、陽子が声をかけた。
 晴れ渡る空に月が美しく、二人で酒でも飲もうかと肴を用意したのだが、酒を取りに行ったまま戻らぬ楽俊を不審に思ったのだろう。
「あ、すまん。今、行く」
 それ、の真相を聞こうと思い、楽俊は酒と共に引き寄せた。


「これは、どうしたんだ?」
 少し酒が入っていたが、酔うほどの量ではなかった。酒のせいにしてしまおうという、卑怯な自分を自覚はしていた。
「前に来たときにはなかったと思うんだが」
 どことなく拗ねたような、いじけたような口調になったのはそのせいだ、と楽俊は自分に言い訳をした。
「お茶だよ」
「……あぁ、そうだな」


 楽俊が見つけたのは、茶缶だった。確かに茶は高級品であるし、透き通るような白い陶器に桃と蝙蝠が描かれた茶缶は見るからに上等なものではあったが、王の身の回りではそのようなもので溢れているのだろうとも思える品物でもあった。しかし、陽子は、今二人が過ごす小さな家に、王として与えられたものは一切持ち込んでいなかった。にもかかわらず、陽子がそれを置いている、というのが何とも不自然な気がしたのだ。大切に保存してあるように見えた。それが、ひっかかった。
「贈り物なんだ」
「え?」
 ぽつりと陽子は呟いた。その言葉の意味がわからず楽俊は陽子を真っ直ぐに見つめた。陽子は虚空を見つめ、どこかに思いを馳せながら続ける。
「先日、下界に降りた官だった人からいただいた」
「何故――……?」
 献上品ともいえるそれを、置いているのか。
 楽俊が言いかけたことを察したのか、一瞬だけ、陽子は寂しそうに微笑んだ。苦しい訳でもなく、ただ寂しそうに。
「大切な人だった。不思議と、その人だけは私の最期まで臣として仕えてくれるような気がしていた――私の大切な、師である人だった」
「――……」
「その人は、いつも私が必要としているときにお茶を差し出してくれている人でね。結局最期まで請うたことはなかったよ」
 視線だけで先を促す楽俊に、背押されるように陽子は続ける。
 今まで彼について誰かに語ったことはなかった。しかし、本当は彼のことを話したかったのだと、陽子は思った。
「その人が、亡くなる前にね。想い分けだと言って、贈ってくれたんだ。もう二度とお茶を差し出すことはできないから、その代わりにって――」
 その途中、立ち上がった楽俊に頭を抱き寄せられた陽子の耳に、規則正しい心臓の音が響く。生きている証を耳に、陽子は生きる今を想う。
「おいらは、何も知らねぇ」
「――……」
「陽子がそんなにも大切に想う、その人物のことを何も知らねぇ」
 楽俊の腕の中で、陽子は首を横に振った。
「楽俊が気に病むことじゃない」
「そうかもしれねぇ。でも、おいらは――」
 続けられた囁きに、陽子は不意に泣きそうになった。

 ――その方の死に悲しんだお前さえ、知らないんだ。

「陽子から聞くことはできるだろう。他の人物から耳にすることもできるかもしれない。けど、おいらはその方に一度も見えることはない」
「――……」
「陽子が大切だと言うその方のことを、本当の意味で、おいらが知ることはできないんだろうな……」
「楽俊、ごめん」
「陽子が謝ることなんてねぇ」
「――……」
「陽子?」
 楽俊の腕をやんわりと外して立ち上がると、陽子は、そのまま台所に向かい、湯を沸かし始めた。
 しばらくすると、楽俊の前には、湯気の立ち上る茶杯があった。中身は先の話題になった件の茶缶に入っていたものだろう。
「陽子? これは……」
 傍らに立ち尽くす陽子に問いかけようとするも、その言葉は遮られる。
「楽俊が来たときに、お茶を出すよ」
「陽子……?」
「だから、二人で飲もう」
 そして、と陽子は続ける。今まで誰かに話したくて、しかし、口にしなかったことを。あの、寂寥の正体を。大切なのだと、伝えることができなかったあの日々のことを。永久に失われた温かなあの手が差し出し、示してくれたもののことを。
「話すよ。彼のこと。たくさん、いくらでも」
「――……」
「だから、聞いてほしい」
 きゅと陽子の指先が、力強く楽俊の手の平に包まれた。彼とは違う、けれど、陽子が欲し、永遠に手放したくないと強く願う愛しい温もり。
「教えてくれないか? 陽子が尊敬し、信頼したその人のことを」
 きっと、話したいと、おいらだから話したいと思ってくれたのだと、思うから。

 抱き寄せられ、口付けられて、陽子は楽俊の肩に擦り寄った。思い出を共有する為の作業を行える幸福に酔いながら。
 するりと零れた涙は着物に吸い取られて姿を消した。


 茶杯の中、浮かぶ月は美しく、暖かな水面の上でふるりと揺れた。





藤袴;あの日を思い出す