現実の続き、夢の終わり
周囲を見回す。誰もいない荒野に一人立っている。
朝か夜か、方角すらもわからない、虚無の空間。たった一つの拠りどころだった剣すら、いつのまにか見失った。着ているものの裾は解れ始め、隙間から忍び込む風は容赦なく体温を奪う。かつては燃えるような赤で人目を引いた長い髪も櫛を通さず埃にまみれ、その輝きを失っている。
陽子は生気のない目でもう一度だけ辺りを見回してみた。やはり何もない。人も、物も、時間すらここにはないのかもしれない。
自分を守ろうと剣を振り回し続けた結果、辿り着いた場所がここだというのなら、それはあまりに残酷な結末だった。望んだものは、こんなものではなかった。
死よりも残酷な、永遠の虚無。
現の全てを拒絶するため、目を閉じ、両手で耳を塞いでも叩きつけられるような強風は止まない。助けなど、ない。
いつからか聞こえてきた声が己の悲鳴だと気付いたそのとき、誰もいないその場でそっと抱き寄せられた気がした。
「陽子」
自分を呼ぶ声が聞こえる。懐かしく、とても切なくなるような。
呼ぶ声に促されるように瞼を開けると、楽俊が顔を覗き込んでいた。
「どうした?」
「え……」
あの無間地獄は夢だったのだと、陽子は大きく息を吐く。
「私――寝てしまっていた?」
「ああ。おいらを待っている間に寝ちまったみたいだ。執務で最近忙しかったって、聞いてたから起こすのも可哀想でな。そのままでいたんだ」
そう言いながら楽俊が陽子の額に触れると、汗で前髪が額に貼りついている。楽俊は起き上がり箪笥から手巾を取り出し、ついでに水をぬるめの茶を入れて牀に戻った。
「陽子。こっち向いてくれ」
まだ呆然としている陽子の額と首の汗を拭い、乱れた前髪を直してやる。ゆっくりと体を起こした陽子に湯呑を渡すと一気に飲み干し、ようやく人心地のついた顔をした。
「とても――嫌な夢を見たんだ」
「魘されてた。あんまり辛そうだったんで起しちまったんだが、よかったみたいだな」
「うん。……じゃあ、楽俊の手だったのかな」
――あのとき、守るように抱きしめてくれたのは。
そのことは楽俊には言わず、陽子は曖昧な笑みを浮かべた。
「どんな夢だった?」
暗闇の中、一つの衾褥に二人で並んで座り、楽俊が陽子の肩を抱く。その温もりが今の陽子にとっては何物にも代えがたいほど心強く頼もしく思えた。夢の余韻はまだ生々しく残っていたが、触れる体温や鼓動が、夢は夢に過ぎないのだと教えてくれる。
「楽俊に出会う前の頃の自分だと思う。心を許せる人なんて一人もいなくて、ただがむしゃらに剣を振って、自分を守れるのは自分だけだって――そうやって自分を守ってるつもりが、気付くと何にもない空っぽの空間にいた。音も色も時間も、何もかもないんだ。死んだのかと思ったんだけど意識ははっきりしてる。それで自分が取り返しのつかない場所に来てしまったことに気付いた。入口も出口もない、二度とそこから出られない。いっそ死んでしまいたいと、でも、肝心の剣も見当たらなくて。終わりのない世界に絶望して、悲鳴を上げてたみたい。起こしてしまって、ごめん」
「お前は、気にしなくていいよ」
楽俊は陽子の髪を撫でる。陽子は安堵して、楽俊の肩にそっと頭を乗せた。
「何でそんな夢、見たんだろうな」
楽俊の問いに陽子も答えられず、小さく首を傾げる。
「疲れていたのは本当だけど……体調が悪いわけでもないし、待っていられると思ってたのに」
「確かに珍しいな。……なあ、もしかして疲れてるところにおいらが来て、安心しちまったか?」
陽子は薄闇の中で少し顔を赤らめて首を振る。照れている様子が暗がりの中でも手に取るようにわかり、楽俊はその幼子のような仕草に思わず小さく微笑む。体の力を抜いて自分の肩に頭を乗せている陽子がたまらなく愛おしい。陽子の柔らかな髪に顔を寄せた。
「あの夢、昔はよく見てた。楽俊と、その――」
「想いが通じる前か?」
思わず言葉を濁した陽子を促すように、楽俊が言葉を繋ぐと、頬を僅かに染めて頷いた。
「最近は全くなかったんだけどな」
「何だかおいらのせいで、嫌な夢を見ちまったみたいだなあ」
楽俊が困った声を出すと陽子は笑って「違うよ」と言った。
「何度も見てきた夢だけど、一度もあの虚無の空間から抜け出せたことはなかったんだ。いつも夢の中で悲鳴を上げて――実際に声に出してて、その声で目が覚めてたから。でも、今日は違った。楽俊があそこから引っ張り上げてくれた。突然現れた手は、きっと楽俊の手だ」
「そうか」
「うん」
陽子は素直に頷く。よほど辛い思いをする夢なのだろう。その呪縛から解放された陽子は、どこか幼さすら感じる。楽俊は陽子を優しく抱きしめながら、その細い肩に圧し掛かる重責を思った。
「……夢の中の嫌な世界は、楽俊に会わなければ、私が実際に足を踏み入れることになっただろう場所なんだと思う」
「ん?」
陽子が唐突に言ったので、柔らかな髪の感触に気を取られていた楽俊は思わず聞き返した。
「本当にどうしようもなかったんだ、楽俊に出会うまで。楽俊に出会ってからもだけど――でも、楽俊は私を助けてくれた」
「だってお前、あんだけの怪我してりゃほっとけるわけがねえだろう?」
「でも、危険はあった」
「……海客で追われてたもんな。怪我した猫みたいに警戒心丸出しだったなあ、あの頃の陽子は。烏号で再会したときは見違えるほど変わってたけど」
楽俊はそう言って陽子の肩を抱く指先に緩く力を込めた。その腕に支えられてきたのだと、改めて感謝の念を抱き、陽子は穏やかに微笑む。
「待てずに寝てしまったのは、楽俊に起こしてもらうためだったのかもしれない」
陽子は目を閉じて楽俊の首筋に顔を寄せる。
楽俊の鼓動、体温。呼吸、声。生きようとする生命力。楽俊が放つあらゆるものが陽子を支える。それをよく理解している陽子は、楽俊と出会えた奇蹟に今でも胸が震える思いがする。
「陽子、どうした?」
「……戻らなきゃ」
朝議があるのだ。戻らなければならない。
しかし、その呟きを聞くと、楽俊は体全体で包み込むように陽子を抱きしめた。
「朝までいろ」
慈愛に満ちたその声に陽子の心はあっという間に揺らぎ、今夜ぐらい自分に例外を許してやろうと思い直す。
きっと、あの夢はもう見ない。だから、もう大丈夫だ。明日からも王でいられる。
白い月明かりが窓から忍び込み、寄り添う二人をそっと照らした。
明日もきっと晴れるだろう。