嵐の夜に



 天から大地を揺るがす音が響く。
 遠くで聞こえていたそれは、段々と近付いてくる。
 ――ひどい雨だ。さっき降り始めたばかりなのに。
 そう、思っていた陽子の視界を白が染め上げる。
 光ったかと思うと、凄まじい音が天井のそのずっと上から響いてきた。
 いや、もう、慶国全土を包み込んでいるのではと思うほどの、大きな音。
 唐突に灯りが揺らぎ、ふっと立ち消える。
 思わず停電だなどと思っていると、もう一つ、外が光った。
 そして、辺りに響き渡る、轟音。

 雷が怖いと思うことはあまりない。
 それでもこれは、体が竦んだ。
 声が出ない。
 遠くで誰かが発した悲鳴に似た声が、私の気持ちを代弁する。
 どこに落ちただろう。
 今のは本当に近かった。
 民は大丈夫だろうか。無事だろうか。
 動揺を隠そうと、手の平で額を押さえようとして、気付く。
 ――あぁ、私は雷を怖がっているらしい。
 ほんの僅かに震えた手が、私の本当の精神状態を表している。
「今のはすごかったな。正直、驚いた」
 私の向かい側に座り、頁を捲っていた楽俊が明かりを再び灯している姿を見て、私は何故だかほっと胸を撫で下ろした。
 その手に触れる玻璃の窓はひんやりして気持ちがいいだろうなあ、と思う。
 空は曇り、雨が降り、雷が落ちる。
 灯りの消えた、他には誰もいない部屋に二人でいると、まるで世界から隔離されたように感じる。
 二人きりの世界なのだと、錯覚してしまいそうになる。
 広げた巻物を巻き取りながら陽子は微笑んでみる。陽子自身、ぎこちない笑い方だと頭の片隅で思った。
「楽俊は、雷平気?」
「遠くで鳴っているならな。陽子は?」
「私も、遠くならね。……今のは、怖かったかな」
「あぁ、今のはほんと」
 窓から離れ戻って来た楽俊が、陽子の肩に手を乗せた。
 玻璃に触れていた手は、やはりひんやりしている。
 僅かな温もりだけでは少し頼りなかったが、それでもそこに他者の温もりがあるだけで、陽子は随分ほっとした。
 無意識に張り詰めていたものが、自然と吐息になって零れ出た。
「陽子」
「うん?」
「実は、すごく怖かっただろう」
 断定的に言われ陽子は返事を躊躇したが、正直な感想を吐露した。
「……そんなこと、ある」
 何でわかったの、と見上げれば。
「今、肩に手を置いたときにわかった」
 ちょっと震えてた気がした、と君は言う。
「本当? でも、私もわかったことがあるよ」
「何だ?」
「楽俊も、実は怖かったんだろう」
「ばれたか?」
「うん。手でわかったよ」
「そうか」
「でも、楽俊が近くにいてくれると心強い」
「おいらも陽子がいてくれてよかった。って言っても、雷相手じゃ、一緒にいて頑張ったって打たれちまったら、どうしようもねぇけど」
「それは仕方ないよ。自然は偉大」
「全くだ」
 くすり、と小さな笑いが漏れる。
「一緒に打たれたら元も子もねぇよなぁ」
 
 雷という自然相手では、勝負にならない私達。
 それならいっそ、私は楽俊と一緒に打たれてしまえればいいのに、と思う。
 そんな気持ちを込めて、私は笑う。

「でも、楽俊と一緒に打たれるのも面白いかも」
「そいつは駄目だ」
 半ば本気の、けれど戯言である言葉を拒まれ、一瞬陽子は固まった。
「――何で?」
「おいらは、まだ死にたくねぇからな」
「……どうして?」
「例えば、おいらはまだ、この間約束した本を陽子から借してもらってないから死にたくない。だから、陽子にも死んでもらいたくない」
「……即物的」
「そんなもんじゃねぇか? 陽子は、時々破滅的なことを言うのな」
「……刹那的って言ってよ」
「だったら、人を巻き込んじまったらいけねぇ」
 それを聞いた陽子の口から、思わずといったように、するりと言葉が出てきた。
「巻き込むのは楽俊だけだよ」
 
「……そうなのか?」
「え? あ、うん」
 
 そうだ。
 楽俊と一緒に命を落とすなら本望だ。
 でも、そんなことは言えないし、それに――一瞬、楽俊が見せた表情。
 あれは何なのだろうか。

 驚きだけではすませられない表情に、陽子は居心地悪い気持ちを殺して、わざとらしく息を整える。
「だって、他の人は巻き込まれてくれなさそうだし」
 景麒はつれていけない。
 いつかは、王としてつれて逝かねばならないだろうが、陽子はそれを望まない。
「あのなぁ……でも、おいらは一緒に死ぬより一緒に生きている方がいいな。陽子は違うのか?」
「一緒に生きて一緒に死ぬのが理想かな」
「そうか……」

 肩の手が動いて、私の頭を優しく撫でる。
 そして、また肩に戻ってきた感触に私は目を細めた。
 窓に触れて冷たくなっていたはずの手が、温かくなっていることに気付いたのだ。
 紛れもなく、陽子の体温で。

 そんなふうに、私の気持ちも伝わってしまえばいいのに。
 口にできない想いに、陽子はそんなことを思う。

 ねぇ、楽俊。
 そんなふうに――一緒に生きている方がいいと言うのなら。
 貴方は、ずっと私と一緒に生きてくれる?

 再び私の向かいに座ったその表情は、いつもと変わらない穏やかで、優しい笑顔だ。
 調べものをどうするか、と問われ、陽子は今日はもう止めようと返す。
 二人して、黙って窓の外を見ていた。
 向こうの空に、光が一筋、落ちる。
 いくつか数を数えていると、やっと音も落ちた。

 遠雷。

 急に、窓を開け放したい衝動に駆られ、立ち上がり衝動のままに行動すると、湿って生温い空気が部屋に飛び込んでくる。
 瞬間、今度はまた近くで雷が落ちた。

「陽子。巻き込むのは、おいらだけにしておけよ」

 ぽつりと聞こえた声に陽子は驚いて振り返る。
 楽俊は広げられていた書物を淡々と本棚にしまっていた。

「巻き込んでもいいの?」

 思わぬ楽俊の言葉に、陽子の声は震え掠れる。
 振り向かないその口元が、微かに笑ったのが陽子にはわかった。
 動揺を、そして溢れ出ようとする感情の渦を隠そうと、口元を押さえるように手を伸ばしかけて気付く。

 この、震えは。
 まるで雷が近くに落ちたみたいな――けれど、私は怖がっているわけじゃない。

 抱えていた書物をしまい終わった楽俊が陽子へと振り向いて、勿論、と頷く。
 陽子はしゃがみ込みそうになったけれども、辛うじてこらえた。
 目が潤んできた気がしたけど、よくわからない。

 ――それなら私は、一緒に生きる方を選ぶよ。

 口にしようと、笑おうとして陽子は失敗した。
 側に歩み寄り伸ばされた、自分よりも大きな手に頭を撫でられ、陽子は何かを耐えるように手を握り締める。

 そして、世界は白く染め上げられ、轟音が響き渡る。

 

 陽子は、轟音と与えられる温もりに背中押されるように、伝えるべきのものではないと重々承知していたはずの言葉を解放してしまった。




碇草・・・君を離さない