光、影を思う



 執務中、休憩にしないか、と路亭に誘われた。
 最近になって、やっと鈴より合格点を貰い受けたのが嬉しいのであろう。御手ずから茶を入れる機会が多くなられた。

 茶を卓に置かれると、不意に主上は口を開かれた。
「私はね、浩瀚。予王を可哀想だと思うけれど、景麒を憐れだと思ったことはないよ」
 それが、先日の女官のことから来ているのだと、すぐにわかった。
「……理由をお聞きしても?」
 内容に反し、主上は微笑を浮かべる。
「私にはね、みんながいる。私の暴挙を、自らの信念のもとに止めてくれるだろう、官達が。けれど、予王にはそれに当たる人達がいなかった。違うか?」
 その問いに私が答える暇もなく、主上は続ける。
「私はね、この慶国の官が彼女を殺してしまったようにも思えるんだ」
「それは――」
「わかってる。彼女に罪がないと言っているわけではないから。だけどね、浩瀚。彼等は表立って彼女を諌めなかっただろう? まぁ、景麒は別だけれど」
 裏では彼女を責めていただろうにね。そう言って、主上は嘲笑とも言えるそれを浮かべた。
「では、何故か。彼等は仙だからだ。王の命に下手に逆らわず、生きてさえすれば何とかなる。また、王を上手く操れば、甘い汁も吸えるしね。そして、最終的には首を――王を挿げ替えてしまえばいい。しかも自らの手を汚すことはない。天がしてくれるから、その必要もない」
 主上は手元の茶器を見つめ、想像でしかないけれど、と続けられる。
「彼女は、恋着に好きで陥ったわけではないと思う。この王宮に、味方と呼ばれる存在は他になかったのだからね。王でありながら無力で――それをよしとする者は少ない。それに、人を蔑む心は思いのほか伝わりやすいものだ。まして、失望されていることに気付かないわけがない」
 主上は苦笑しておられるが、おそらく登極してまもなくのことを思い出されているのだろう。自分にも覚えがある、と。
「自分にその素質があるとは思えなくても、麒麟に選ばれた以上、彼女は王だ。そして、半身である麒麟だけは絶対的な味方であるはずだ」
 かつて、陽子が景麒に『お前だけは私を信じていなければならない』と言ったように、景麒だけは彼女を信じ、味方でなければならなかった。
「けれど、景麒は彼女を叱るばかりで――彼女の孤独感はいっそう深まったのだろうと思う。失望されて悲しくない人なんていないから」
 そして、と主上は庭へと視線を動かした。そこに何者かがいるわけではないが、主上には予王の姿が見えているのかもしれない。
「彼女にとって、景麒に失望されるということは天に失望されるのと同義であったのではないかな。だから、より悲しくて苦しかった」
 延王も言っていたではないか。
『人は愚かだ。苦しければなお愚かになる』と。
「さっきも言ったけれど、予王が悪くなかったわけじゃない。彼女は自らの両目をその手で塞いでしまったのだから。だけど。だけどね、浩瀚」
 すうっと、その緑の双眸が私を映す。
「それは本当に、予王だけの罪なのだろうか。浩瀚、お前をどう思う? 官の一人であるお前は、どう考える?」

 どきり、とした。
 剣を突きつけられ、生か死かの選択を求められるような、そんな感覚。
 予王の失道の一端が、私達官にもあるということ。
 何もしなかったことが罪であるということ。
 考えもしなかったといえば、嘘になる。嘘にはなるが――。

「景麒は予王が失道したのは自分が彼女の想いを受け入れなかったからだと思っている。彼女が失道したのは『恋着』のせいだと確信しているんだ」
 主上は私の答えを聞かぬまま、話を続けられる。
「確信して、それを疑ってない。妄信しているといっても過言ではないくらいに、恋着に至るまでの過程を、全く見ていないんだ。それがどうしてなのか、私はわからない。ただわかるのは、景麒は自らを天の器としてしか見ていない」

 麒麟は天の器だ。天意によって動く。
 何の問題もないのではなかろうか。

「確かに、麒麟は天の器だ。天意によって王を選ぶ。だけど、心が存在しないわけじゃない。けれど、景麒はそれに気付いていない。予王のこともあってだろうけど――」
 だから、と緑の双眸が私を射抜く。
「景麒をつれていく。自らにも心があるのだと自覚しなければ、景麒は私の次に選んだ人を失道に追いやるだろう」
 麒麟を国に遺さないという王の言葉。
 驚かなかったといえば嘘になるが、主上であればそれくらいは仰るだろうことは予想されていた。
「……主上がそうお考えでしたら、台輔にご説明することもできましょう」
 申し上げると、主上は首を横にお振りになる。
「自らが天意によって動いていると信じて疑わない者に、形のない心を教えることは難しい。それに、私がどんなに説明したとしても、景麒はそれを信じたりはしないだろう。……私には好きな人がいるから」
 主上の言葉に、ぎょっとした。失道の言葉がよぎったのだ。
 それが顔に出ていたのだろう。主上は目を見開かれると、声を上げて笑われた。
「――大丈夫だよ、浩瀚。私は恋愛事で失道するつもりはない」
「おそれながら、主上。そのお言葉で納得する者がこの慶国に、はたしておりますでしょうか」
「いないだろうな」
「でしたら――」
「だから、浩瀚。お前に話しているんだ」
 ゆっくりと、微笑まれる。
「お前には、私を見定め続けてもらいたいから」
 そう言って、主上は茶器を置かれると立ち上がり、執務室へと向かわれる。
「主上!」
 慌ててその後を追う。
「何だ、浩瀚」
「主上は――台輔を疎んじていらっしゃるのですか?」
 私の問いかけに主上は首を傾げられる。
「まさか! でも、どうしてそんなことを?」
「主上の仰られたことは、まるで台輔を責めるような物言いでしたので」
「責めていないと言えば嘘になるかな。でも、景麒を疎ましく思ったりしたことはないよ。ただ、自分の半身だと思っているからか、厳しい目で見てしまうんだ」
 苦笑しながら主上は、そう仰られる。親しい存在へと向けられる、優しい眼差しに、ほっと胸を撫で下ろす。
「浩瀚。私は天を疑っている。それは、泰麒のことからでもわかると思うけれど……だからね、私にとって景麒はある意味ちょうどいいのかもしれない。私と景麒は、お互いが光であり、影なんだ。だから――」
 ここにきて、主上は初めて言葉を濁された。それは言い淀んでいるのではなく、言葉を探しているように見える。
「言葉にするのは難しいけれど……何ていうのかな、景麒はつれていかなくてはならない気がするんだ。あれは――どこかが欠けている気がするから」

「何かが欠けた麒麟を次の王には遺せないよ」

 風に攫われそうに小さな声が、何よりも私の中で響き渡った。

「それに、恋をすることは悪いことじゃないと思う。景麒は恋というものを、予王を通じてしかしらない。恋着を恋だと思っている節がある。だから、景麒は私が誰かに恋することをとても恐れているんだろう」
 でもね、と主上は微笑まれる。それは何かを慈しむような、温かな笑み。
「人は恋わずにはいられない存在だ」
 
 人に、物に、夢に、幸福や希望。自らが美しいと感じるものやこと、憧れる全てのものに。
 それが例え、叶わなくとも、終わるものでも。
 それこそが、人を人たらしめ、本当の意味で人を生かすんだ。

 歌うような言葉が風に乗り、この空間に満ちていくような感覚を覚える。
 目の前にいるのは主上ではない。
 恋をする娘に他ならない。
 けれど。

「恋をするから心を知るのか、心を知るから恋をするのか。それはわからないけれど――少なくとも、それを理解できないものに国を託すことはできない」

 その目はまぎれもなく「王」のものだ。
 主上ならばあるいは――。

「先のことを考えていらっしゃるのは素晴らしいことですが、今は山積み状態の問題を片付けていくのが先決かと。そして、それには幾年もの歳月が必要とされます」
 私の言葉に、主上は頷かれる。
「いずれ、その過程で解決する問題もございましょう。不変のものなど、この世には存在しないのですから」
「そう、だろうか」
「そうですとも」
「――ありがとう、浩瀚」
「私は事実を述べたまで。礼には及びません。私はそれよりも、主上が先ほど中断された政務を今日中に終わらせていただければ、十分にございます」
 笑みを浮かべた浩瀚に陽子はがっくりと肩を落とす。
「……うん、頑張るよ」

「頑張る」
 国内の、いい思いを一度もしたことのないだろう民のために。
 この国が少しでも豊かになるように。

 真っ直ぐな目。
 曇りや翳りのない、澄んだ双眸。

「期待しております」

 その目に免じて、『好きな人』とやらについて追求するのは止めてさしあげましょう。

 梅の蕾が膨らみ始めた、とある午後のことであった。






クロッカスの花言葉・・・「信頼」「裏切らないで」