溺れる森
近道だからと選んだ道で聞こえてきた言葉に、俺は思わず振り返った。
「だから私ねぇ、殺してやろうかと思ったのよ」
そう言ったのが、上品な女性の口だったものだから、余計に物騒に聞こえた鳴賢は思わず目を丸くした。
「殺して、私も死んでしまおうか――……でも、こうして生きてるわ」
「――そりゃあ……何よりで」
他に何を言っていいかも思いつかなかったのだろう。ごろつきと思しき二人組の男は馬鹿みたいに凡庸な言葉を返した。しかし、上品な婦人はそんなことには頓着せず、「そうでしょう」と満足そうに、どこか誇らしげに応じた。
「奥様が生きていらっしゃるのは何よりではありますが、私どもの用があるのは旦那様なんですよ」
「主人は死にました」
「はあ?」
婦人の平然とした口調に、弟分と思しき男が声を荒げるが、それを押さえるようにしてもう片方の男が間に割って入る。
「死んだ、とは?」
「言葉通りです。立慧さんとやらと心中でもしたようですよ」
そう投げやりに言いながら婦人は書簡を取り出し、淡々と読み始めた。
婦人の夫が書いたと思われるその書簡には、立慧という妓女と薬を飲んで川に沈むから探さないでくれということや、婦人を今でも愛していること。立慧から心中を迫られたことやらが自己弁明と言い訳を織り交ぜつつ、随分と感情の込もった調子で書かれているようだった。
平坦な声で読み終わった婦人は男達にそれを手渡した。
立慧というのは、成人した男であれば一度は耳にしたことがあるほどの妓楼にいる花娘の名前で、なかなかの人気がある。やや舌足らずな甘い声と時々見せる凛とした表情がたまらない、とは客の言だ。その、立慧と自殺を図ったらしい。
ちなみに俺は、立慧が今日も元気に客の相手をしていることを知っていた。つい先程、その立慧と別れて来たばかりなのだった。しかし、通りすがりの、しかも話を盗み聞きしている俺が伝えることではないし、夫の生死に何ら関心のないような顔をしている婦人のことだ。それを知ったとしても、どうでもいいと笑うだろう。
対して可哀想なのは、二人組の男である。彼らは風体からして、おそらく金貸しの回収者だ。彼らが必要とするのは金である。滞納額は決して少ない額ではない。仕事を完遂することを第一とする彼らにとって、今の状況はこれ以上とないほどに面倒な事態だ。
滞納者は行方どころか生死不明。目の前には夫を殺してやろうと思ったと独白した女。下世話な欲望を飯の種にしている男達の肩は先程より、若干下がってしまっている。男と目の前の婦人が既に離縁していたならば、貸した金は泡と消える。しかし、貸した方は納得できるはずもない。回収できませんでしたとは言えるはずもない。苦虫を噛みつぶしたような顔からして、心底面倒だとでも思っているのだろう。
しばらくして気分を切り替えたのか、兄貴分の方の男がすっと背筋を伸ばした。
「こんなことは申し上げにくいことなんですが、こちらも仕事なんですよ。旦那さんの借金は、是非とも奥様に払っていただきたく」
申し訳ないんですけどもね。男はそう続けて、婦人の返事を待つ。
「こんな恥さらしの男ですが、私の夫には違いありません。全て了承しております」
婦人はやはりどうでもいいような雰囲気で、「あの男はいくらほど、立慧さんにつぎ込んでおりましたの」と、平静な声で男達に問いかけた。気圧されながら男が金額を告げると、しばらく待つように言い、婦人は一旦屋敷の中へ戻っていく。
やがて婦人は淡い光沢を放つ布――絹に包まれた銭十貫を手渡し、同じ布で作られた巾着から銀貨一枚を差し出した。
一貫に正しく千銭あるか否かを確認することも許されないような、潔い差し出し方だった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「――ってことがあってさ。そういうのって怖いよなぁ」
「……ん? あぁ、そうだよなぁ」
明らかに流していたことがわかるような楽俊の返答に苦笑しつつ、鳴賢は、もう一度怖いってと呟いた。
そして、先程から何かを考え込んだ様子の楽俊のことが気になり、声をかける。
「何考えてんだ?」
「いや、何か聞いたことのある話だと思って」
それを聞き、鳴賢は虚脱感を覚えた。
「こんな話を聞いたことがあるって、どういうことだよ」
気のせいだろ。鳴賢の言葉に楽俊は右頬をかく。
「……うん、そうだな」
鳴賢の言葉は正しかった。確かに聞いたことはない話であった。
「おいらの勘違いだったみたいだ」
そう言って楽俊は筆を置き、ようやく鳴賢へと向き直った。
「それで、鳴賢は何が怖かったんだ?」
「あ、ちゃんと聞いていたようだな」
「誰も聞いちゃいないなんて言ってないだろうに」
今度は鳴賢が照れたように頬をかいた。先程の話は語りかけていたようで、半分は独り言のようなものだった。今さら改めて持ち出されると何となく気恥ずかしいものがあった。しかし、有耶無耶にするようなことでもなかったので、婦人と男達のやり取りを思い出しながら答えた。
「綺麗な顔して生きてる人間だって何考えてんのかわからないもんだよな、って。結婚なんてするもんじゃねえな――なんて、思ったんだよ」
今さら、女は怖いなんてことは口にしない。わけもわからず怖いのは何も女ばかりではないことを、鳴賢はよく知っている。大学の中にだって――性別に限らず人の内には魔物が住まう。
とても美しい家だった。鳴賢はつい先ほどまでいた家のことを思い出す。詳しくは見えなかったが、その界隈によくある、金がかけられていることが一目でわかる――しかし、それ以外の情報が一切伝わってこないような屋敷。美しく上品な妻。上辺だけしか知らない女に大金を使う男。怖いのは――あれ、何だっただろう? 本当に怖いものとは何だ。
確かな恐怖を感じたはずなのに、その正体を掴んでいたはずなのに、言葉という形にしようとした途端、それは霧散してしまった。
途切れてしまった問いと回答の隙間を埋めるために、鳴賢は妙に明るい声を上げた。
「ほら、そんなことより、課題は終わったのか?」
明らかな話題転換に、楽俊は苦笑しながら卓子の上に広がる紙を指差した。
「今書き終わったところだ。これから印を押して、墨が乾けば出せる」
論文の提出期限にはまだ七日ある。十分すぎるほどに余裕のある完成だった。
「それで、お前こそどうなんだ?」
楽俊の言葉に鳴賢はにやりと笑う。
「馬鹿。何で俺が妓楼に行っていたか考えればすぐにわかるだろうに」
「……え、もう完成していたのか?」
「はずれ。もう提出していたのさ!」
どうだと言わんばかりに胸を張る鳴賢に、楽俊は目を見開いた。
「明日は雨かもしんねぇな」
「どういう意味だ、それは!」
楽俊の部屋に、怒号が響いた。
「しかし、夫の方は結局どうなったんだろう?」
落款を押し終えた楽俊は、ふと、思い出したように呟いた。
「ああ、さっきの家の話か。心中相手が生きているんだから――そもそもの、心中自体が作り話ってことだろうな」
なあ、と同意を求めたが、楽俊はどうだろうなと首を傾げている。
「どうだろうって、お前が聞いたんじゃないか」
「……これからその婦人はどうするんだろうな」
「さぁ。役所に届け出て、離縁でもするんじゃないか」
そうかもな、と応じつつ、楽俊は印泥が滲まぬように落款の上に小さな紙片を重ねる。
「そういえば結婚なんてするもんじゃねぇって言ってたが、鳴賢は結婚したいってぼやくじゃないか」
「いつだよそんなの」
「この前、飲んだとき言ってた」
それは確か課題が出される前のことで、二十日前のことだった。曖昧な記憶を探れば、確かにそのようなことを言ったような、気もする。言ったかもしれない。内心、鳴賢は悩む。しかし、それは本当に結婚したいから言ったわけではなかった。
「そんなのただの酔っ払いの戯言に決まってるだろう。ただ、あのときは確か――近くの席で新婚の男が惚気てたからちょーっとばかし羨ましくなったんだよ」
「羨ましかったのか」
ゆっくりと首を縦に動かした鳴賢は照れたように頭をがしがしとかく。
「正直、羨ましいと思ったよ。あんなふうな顔で誰かのことを語れるって言うのはさ。でも、俺はそれどころじゃないだろ?」
大学の卒業。それが今の鳴賢にとっての最重要事項であった。これ以上話が深まるのは嫌だという気持ちを込めて質問の形で牽制した。それは楽俊にもそれは伝わったようで、またこの話題に執着していなかっただろうこともあり、あっさりと別の話題へと移っていった。
恋愛、結婚、心中、遺書の話。空いた時間に話す話題としては避けたいようなものばかりだった。もっと明るいものがいい。鳴賢は思う。ただでさえ、背筋が冷えるような恐怖を感じた後だった。
いつの間にか二人は出された課題について、熱弁を振るっていた
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
一組の男女が細い路地を左に曲がり、それから今度は右に曲がる。二人の距離はさほど近くない。手を繋いでいるわけでもない。しかし、二人の表情や仕草が自身にとってどんな存在なのかを雄弁に語っていた。
男は思う。道が入り組んでいるわけではないのだが、あまり代わり映えしない風景に、少しでも油断すれば迷ってしまいそうだった。そもそも初めて訪れる場所は地理が掴みにくい。
友人に教えてもらった建物を探し視線を巡らせた矢先、連れの女が、あ、と声を上げた。
「どうした、陽子?」
「いや、水の匂いがしたから。教えてもらった工房は、川の近くだったよね?」
陽子につられるようにして楽俊は辺りの匂いを嗅いでみるが、それらしき臭いはなかった。しかし、陽子は楽俊以上に五感が鋭い。陽子の進む方向についていくと、彼女の言葉通りにやや大きな川沿いに出た。風に揺れる柳の木の先に、睡蓮の装飾がなされた橋が架かっているのが見えた。友人の言葉が正しいならば、目的地は近い。
しかし、いくら平坦な道とはいえ、馴染みのない土地を歩くのは存外に骨が折れることだった。ちょうどいい場所に簡素な路亭もある。休憩を提案すれば、陽子は素直に頷いた。
さらさらと流れる川の音を聞きながら、二人して路亭から川を眺めた。暦上はもう初夏であるにもかかわらず、先日降った雨のせいで陰った場所では風の冷たさを感じた。
不意に立ち上がった陽子を目で追いかけると、川の側まで歩み寄り、下を覗き込んでいる。
「あれってどれくらいの深さなんだろう」
つられて覗き込むと、川は揺らぐ水草によって底まで見通すことはできなかった。水草の長さから思いの外、深さがあることが知れる。陽子もそう思ったのか、潜れそうだねと笑った。
「――なぁ、陽子。こんな場所にある川に沈むことができると思うか?」
「……結構深いから可能だと思う。でも、場所は関係ないと思うけど」
「いや、そうじゃない」
そうではなく、人目があってそもそも川に入るのは難しいだろう、と楽俊は言う。
物理的な条件ではなくより具体的な話だった。確かに辺りには人は多くはないが、それでも切れ目なく人が通る場所だ。もし、誰かが川に沈もうとしようものなら大騒ぎになり、それどころではなくなってしなうのは目に見えている。
「実はな――」
そう言って楽俊は先日聞いた話を陽子に語った。
「その話を聞いたとき、陽子が訳してくれた話の作者を思い出してな」
「そういえばいたね、そういう件の出てくる作者が」
時折、六太が陽子のもとへ持ち込む蓬莱の書物を手習いの代わりにこちらの言葉に訳し、巻末には、作者にまつわることも加えていた。それらは冊子にまとめ、言葉遣いなどを楽俊に添削してもらっていたのだ。
楽俊が思い出したのはその中の一人で、蓬莱の人間ならば一度は聞いたことのある作者だった。
「確か、あれは貸本屋に卸した中に入っていたよね?」
小説は楽俊の添削の後、雁州国のとある貸本屋に卸していた。楽俊のよく通うその貸本屋は、好事家の主人の趣味によって集められたもので、様々な分野のものが置かれていた。中には蓬莱のものを訳しただろうと思われる書物もあり、それで陽子が訳したもののことを話題に出すと、ぜひ譲ってほしいと頼まれたのだった。
添削したものは陽子に戻し、改めて楽俊が写したいくつかの冊子をその貸本屋に渡した。
「ああ。それで、紙は今から行く工房の人間が出してくれたんだ」
貸本屋の主人が必要経費は出してくれるということで、楽俊は以前再開した幼馴染を頼ったのだった。
丈夫で長期間使用できる紙と、それを閉じる糸と、紙に合う墨。それらの組み合わせを考え模索することは久し振りに胸躍る作業だった。
「先日、再会した幼馴染で名前は――藍暁、だった?」
「そうだ。あっちも、冊子のこともあって会いたがっていたから、今回のことはちょうどいい機会だと思ってな」
「そうなんだ……何だか緊張してしまうな」
「緊張? 何でだ?」
「――うん……楽俊の友人に紹介されるのは、初めてのことだから」
「そうだったな」
陽子の身分や、楽俊の置かれている環境もあり、大学関係の人間には紹介することができずにいたのだ。鳴賢辺りには赤い髪の娘と恋仲であるとそれとなく話してはいたが、実際に紹介したことはない。
だが、藍暁は大学関係者でもなく、権力争いとは無縁の立ち位置にいる人間だ。紹介することにより問題は生じないと判断してのことだった。
川の水面は穏やかで太陽の光は眩しいほどであるのに、日陰は相変わらず肌寒い。
――こんな日だったのかもしれない。
ふと陽子は思う。先程、楽俊の話に出てきた男が、妻にその手紙を書いたのはこういう日だったかもしれないと。教唆か戯言か妄想かはわからないが、連れ添った妻ではない女と入水自殺をするなんて馬鹿げた発想は、きっとこんな日から生まれるのだろう。
「例えば、ここに件の薬があったとする」
「それ、話しの続きか?」
「まぁ、例えばの話だよ。それで、その薬を手に私が一緒に沈んでくれと言ったら――どうする?」
どうするって言われてもなぁ、と楽俊は困ったように頭をかいた。
「――そうだな……陽子がどうしようもなく、本当に困ったような顔で提案したなら乗ってしまうかも知れないなぁ」
目を見開いた後、どこか安堵したように息を吐いた陽子を少しからかうつもりで、楽俊は表情を変える。
例えば、の続き。
「『不安でいけないんです。こわくて、とても、だめなんです』」
本当に困っているように、苦笑しながらそう言った。
台詞は小説のものをそのままなぞるだけで、何の捻りもしなかった。加えて台詞は件の話と異なる状況だった。それでもそう言った。突然の変化に陽子は少し驚いたようにぽかんとした後、それが「例えば」の続きだと悟ったようだった。
すっと表情を戻し、穏やかに微笑む。
「楽俊にそんな顔で、そんなこと言われて――私が断ると思う?」
即座に差し出されたものは、陽子を形成する全てのもの。それらを何の迷いもなく譲り渡す、純粋さ。
そのとき、楽俊は唐突に思い当たった。言葉にしようとした瞬間にわからなくなった、鳴賢が感じたという恐怖の対象が何なのか。
怖いのは、自分の境界内にいる人物が、何食わぬ顔をして心の奥底に牙を尖らせながら隠し持っていることだ。普段は見通すことのできない、自分を含めた誰かの心の深淵を覗き込んでしまった瞬間だ。
磨き上げられた美しい家。上辺しか知らない女と死ぬと騙る男。浮気の事実を残したまま行方不明になった夫の借金を即座に支払う絹を着た女。遺書に連名させられていた花娘がいつものように客をとっていたこと。
――気付いてしまった。
いや、本当は随分前から気付いていたようにも思う。随分前――それこそ、陽子を恋しく思うようになる頃から。
何食わぬ顔で冗談めかした陽子の手が微かに震えていることなど、気付かなければよかった。しかし、理解してしまった。本来は自身ですら見えないはずの己の、陽子の、心の深淵を。
日常的な苦笑を互いに向けながら、そうして何事もなかったかのように再び二人並んで川沿いの道を歩き始めた。
何もなかった顔をして、何も見なかった振りをして、穏やかないつもの日々に戻れたかもしれない。だが、見てしまったのだ。陽子の微かな手の震えを、そして、己の心の奥底を。
相変わらず風は肌寒いが、現状は悲観からは程遠く、また、入水自殺した著者のように、楽俊は何一つ絶望などしていなかった。
「陽子」
「……何?」
陽子が振り返ったことを確認し、楽俊は本当に困っているように苦笑する。
――不安でいけないんです。こわくて、とてもだめなんです。
一人生き残ってしまった男が女を水に誘ったときのように、最大限の同情と共感を引き出す表情で告げた。
「いつか、共に沈んでくれないか?」