美しき人生



 ――そのときの感情は、とても言葉では語り尽くせない。


 勢いよく開けた、扉の向こう。
 陽子の目に映ったのは、山のように積み上げられた書籍の数々。それが山脈のように、部屋を埋め尽くしている。
 一番手前にあった低い塊に、先程と同じような包状が置かれていた。
 それには、やはりひどく懐かしい字で、男が官になるために使用した私物の書籍全てを陽子に譲り渡すということが書かれていた。
 そして包まれていたもう一方には、書籍が内容ごとに分けられていること、それがどのように置かれているかが記されていた。
 蜜柑色の表紙で綴じられている、近い場所の山から頁を捲ってみると、男の意見や注釈、また、法律であれば、どのように改正されたのかなどが事細かに書き込まれており、彼が実際にその書籍を利用していたことがわかった。
 書籍は、部分的に紙や綴じ紐が新しくなっていたりと補修されているものも少なくはなく、男によって使い込まれていることが感じられた。
 それらを眺めているうちに、ほろりと涙が頬を伝った。唐突に流れ落ちたものを止めようとするも、次々にそれは溢れ出で――そして、陽子は知る。
 その身を麺麭に変え、葡萄酒に変え、陽子の内をひたひたと満たすように、男が差し出してくれていたものは、まさしく愛であったのだと。
 陽子は、男が自分に宛てた言葉を思い出し、堪え切れず崩れ落ちて泣いた。

 ――いつか、あの部屋を訪れて下さい。私の全てが置いてあります。

 部屋にあったはずの家具や日用品、文房四宝の類は何も置かれていなかった。
 ただあるのは、男と共に官吏人生を送ってきた、やたらと多い書籍の山だけ。
 そんな部屋で、陽子はただ小さな子供のように泣きじゃくり、馬鹿みたいだと心の中で叫びながらも、ただ寂しくて悲しくて泣いた。
 あの男が死んでしまったわけではない。二度と会えないわけでもない。男が書き残したように、男の全てはここにある。
 けれど――それでも。

 あの男が、最後の最後まで自分に与え、残してくれたものは、ただひたすらに愛情だけだったのだと理解した。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 その後、陽子は男の部屋に置かれていたものを自らの書庫に移動させ、全てを引き取った後は、男の仕事場であった部屋には一度も足を踏み入れていない。
 時折、部屋に残された男の温かさを求めて執務室より部屋の方向へ視線を送ることもあったが、時間が経つにつれ、それもいつしかなくなった。
 やがて、男が王宮から去った寂しさに泣いた日の記憶も薄れ始めた頃、陽子はそれを唐突に思い至った。


「主上? どうしてこちらに――」
 扉を開けると、それまで机に向かっていた青年は顔を上げて目を大きく瞠り、陽子を見つめた。そして、慌てたように本を置いて立礼する。
 あの男の部下であったこの青年は今、男と同じ職に就いている。その机の両隣には、以前のように、書籍が山積みになっていた。
「あぁ、気にしないでほしい。と、言っても無駄なのだろうな」
 溜め息交じりに言うと、青年ははっと我に返り、照れたように微笑んだ。
「申し訳ございません。まさか、主上がこちらへおいでになるとは思わなかったもので……」
 青年の言葉に、陽子は今度こそ苦笑した。
「そうだな。私も来るつもりはなかった」
 言葉に含んだものを察してか、青年はそっと目を伏せた。
「けれど、この部屋を使っている人物がいると知ってね」
 青年は、はっと顔を上げて謝罪した後、さらに言葉を続けた。
「――弁明させていただけるのでしたら、申し上げたいことが」
「許す」
 ありがとうございます、と告げ、青年はぐるりと部屋を見渡した。
「この部屋は、湿度や風通しに日当たりなど、書籍の保存や修繕に向いている部屋なのです。お許しいただけるのでしたら、このまま使用させていただきたいのですが」
「お前は、この部屋を使う許可を申請し、受け入れられたのだろう? ならば、私が言うことは何もない」
 陽子の言葉に、青年は僅かに拍子抜けしたような表情を浮かべた。
「あ、はい。ありがとうございます」
 と、頭を下げた青年に苦笑しながら陽子は近付き、そっとそれを差し出した。
「これは――?」
 下がったままの青年の視界に入ったそれは、綴じ紐の切れてしまった、題名の見当たらない本だった。
 色褪せた柑子色が年季の入り具合を語っており、けれど、それは丁寧に扱われていることがわかる状態であった。
「私にとっての、教科書みたいなもので――大切なものなんだ」
 そこまで言われて合点がいったのか、青年はあぁ、と頷いた。
「修繕でございますね」
 言って、受け取ろうとしたのだが、陽子が引っ込めたために叶わず、青年は今度こそ首を傾げた。
「主上?」
「いや、そうじゃない。私に――修繕の仕方を、教えてほしい。仕事に支障のない程度でかまわないから……頼む」
 請われ、青年は途惑ったように、そして、さも当然であるかのように声を上げた。
「そんな――主上がお望みでしたら、いくらでも」
 青年の声には、まるで陽子には教授される権利が認められているかのような真摯さがあった。
 陽子は青年に視線を合わせ、微笑んだ。
「ありがとう。本当に大切なものだから、助かる」
 青年は部屋のどこからか椅子を持ってくると、陽子に座るよう勧めた。
「とりあえず今日は、本の綴じ方についてご説明いたします」
「うん。宜しく頼む」
 そうして、時間はゆっくりと穏やかに流れいく。
 陽子の手元、優しい温もり色したその本を、温かな光が照らしていた。





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