美しき人生
あれから三年の月日。
男が、再び陽子に会いに来てくれたとき、そうではないかと思う心もあった。
「辞職?」
細く、けれどか弱さを感じさせない長い男の手を見ながら、これで二度目だと渇いた思考が生じる。
男の申し出に戸惑い、見上げると陽子の胸に懐かしい記憶がよぎった。変わらないはずであるのに、幾分老けたような男は、あの頃陽子に向けてくれた優しい笑顔を浮かべて小さく頷く。そのゆっくりとした動きも何も変らないのに、ただ、離れていた時間だけが重く圧し掛かる。
「もちろん、今すぐというわけではありません。引継ぎなど仕事の都合に合わるつもりなのですが」
陽子は、男の話す内容にひどく動揺している自分を確かに感じていた。
誰が陽子の周りから去ろうとも、この男だけは生涯仕えてくれるのではないだろうかと何処かで思っていたからだろうか。
――例え、あの日のあの場所を、もう手にはできなくとも。
「理由は?」
その場で問うと、男は昔のように語り始める。丁寧にわかりやすいように自分の内情も含めてこうでありたいと。
辞めてほしくないという思いはあるのに、口も挟めずに、ただぼんやりと男の声を聞いていた。しばらく間を置き、陽子は辞めた後はどうするのかと尋ねた。
「今一度、下界で生きてようと思うのです」
その言葉の意味に驚いた陽子が思わず、
「え……」
と、言葉を洩らすも、男は重ねて言葉を続ける。
「いつか主上にお話せねば、と思っていたのですが――何分、小心者で話す決意が固められず、何もお伝えできぬまま今日を迎えてしまいました」
「降りるのか? 唯人として?」
「――はい、それが私の希望でしたので」
陽子は、男の「希望でした」に反応した。
「いつからだ。いつからそれを決めていた」
問うと、男は予王が玉座に就く前からだと告げた。
妻を亡くし、子を亡くし、母も父もないままに、長い時間を重ね過ぎて、人としてあるべき姿を忘れてしまうことが恐ろしくなったのだ、と男は笑った。
「では、私に声をかけたときは、それをもう決めていたのか?」
何処か裏切られたような気持ちで、言葉に棘が含まれてしまった。男は少しだけ俯いた後でゆっくりと告げる。
「……主上にお会いできてよかった。こんなことを申し上げれば不敬になるやもしれませんが、主上があの部屋を訪ねて下さることが、本当に嬉しかったのです。何でもない話に耳を傾け興味を示してくれるのが嬉しかった。主上という存在が、私の孤独を癒して下さったのです」
でも、それは自分も同じなのだ――陽子の想いは喉に引っかかり、形になることはなかった。
「しかし――覚えていらっしゃいますか? 私が遂人を殴ってしまった出来事を。あのとき、私は初めて自分が抱いていたものに気付かされました。主上の存在がいつのまにか、私の中で大きなものになって――娘のように感じていたのだと。ですが、私は官として、仙としての生に終わりを決めているというのに、孤独を癒されたいと思う気持ちはとても浅ましく、主上にとても顔向けできるものではないと思いました。己の弱さゆえの苦痛から逃れるために、愚かにも主上を利用した私は、もう主上にはお会いできないと」
申し訳ございません、と男はその場に伏礼した。
陽子が禁じた行為を、あえてこの場で使用する姿に、あのときの男の様子を思い出した。
今、吐露された男の想い――そんな気持ちで、あのとき頭を下げたのかと思うと、ひどくやるせなかった。
そんなことはないと伝えたい思いは確かにあるのに、やはり言葉は喉を通らず渇いた息が漏れるだけだ。聞きたいことも、話したいことも沢山あった。それなのに何も口にできない自分が歯がゆく、陽子は眉根を寄せた。
自分を利用したのだと、あえてこの男が言うのならそれでもかまわなかった。そんなものは、どうだってよかった。
ただ、こうやって謝られることが、頭を下げられることこそが悔しくてならないのだと。
それなのに、ようやく口をついて出た言葉はそのどれでもなかった。
「……後悔しているか?」
共に過ごした時間を。そして、陽子を主と頂いたことを。
そんなことは欠片も思っておりません、と男はすぐさま返し、時が止まったかのような長い沈黙の後に、受諾していただけますかと静かに聞いた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
陽子は、その後の男がどんなふうにどんな思いで残された時間を過ごしたのか知らない。
あの男のことを振り払うかのように執務に没頭し、本当に忘れかけた頃に男は王宮から静かに去っていき、陽子はそっと男を仙籍から除名した。
男がその後、どこで何をしているのかを知りたいと陽子が静かに思い初めたのは、黄金色に染まった穂が頭を垂れる季節であった。
あの男と出会ってすでに五年の歳月が過ぎていた。
しかし、男のその後を知ることによって、もしかしたら、あの男を今度こそ取り戻せない形で失うのではないかと思うと恐ろしく、身動きが取れないままに月日は流れ、そして、それは届けられた。
「主上、浩瀚より預かってまいりました」
景麒が手渡した包状――紙で包まれた書簡の表面に書かれたその文字は、確かに見覚えのあるものだった。陽子はそれを静かに受け取ると、中身を取り出すこともできないままに放心した。ひどく懐かしい、字であった。
「主上?」
それは、確かにあの男の筆跡で陽子へと宛てられており、中に何が書かれているにしろ、きっとあの男の最期の言葉になるのだろう。
震える手で、しかし、覚悟を決めて書簡を開けば、拍子抜けするほどに簡素な内容が、名前を添えて書かれているだけだった。
『いつか、あの部屋を訪れて下さい。私の全てが置いてあります』
陽子は誠実さが滲み出る文字を何度も目で辿り、男の名に指を添える。
すると、ぶわりとこみ上げてくるものがあり、不安げに覗き込んだ景麒に視線を向けぬまま、執務室を飛び出した。
景麒の声を背に受けながら書簡を握り締め、ただただあの部屋を目指す。
こんなふうに走るくらいならば、もっときちんと話をしておけばよかった。
例え言葉にできなくとも、あの男は受け止めてくれただろう。笑って、頷いてくれただろう。後悔は次々に浮かび上がり、自分の愚かな自尊心を吐き気がするほど嫌悪した。
大事だったはずだ。自分だって、彼が与えてくれるものが。彼が。あの部屋が。共に過ごしたあの日々が。
この上なく、大事だったはずだ。
離れていた空白が寂しかったのだと言いたかったはずだ。あの頃、茶を飲んで語り合うだけの時間が、自分には何よりも支えだったのだと、伝えたかったはずだ。
――伝えればよかったんだ。
扉の前までくると、今は人の気配のない乾いた空気だけが感じられた。
陽子が足を踏み入れなくなって、あの男がいなくなって、どれくらいの時間が過ぎていたのだろう。温もりを感じていた扉は今、無機質にただあるだけとなってしまっていた。
陽子は乱れた呼吸を正さぬまま、何事か決意をしたような表情で扉を開けた。