美しき人生



 それは和州の乱を治め、王宮に戻り、しばらく経ってからだった。
 以前のように、執務の合間に僅かなりとも時間ができたので、男がいる部屋へと向かっていたのだ。その途中、陽子はひどく慌てた様子の青年に声をかけられた。官同士が揉め、止めても聞かないのだという。
 彼は以前、男に数少ない部下の一人だと言って紹介された官であった。
 男が地官である遂人――山野や治水の管理を司る官を殴っているのだ、と青年は続ける。
 それを聞いたとき、陽子は胸騒ぎを感じた。
 悪いことほどよく当たる人の勘はそのときも外れることはなく、青年に案内されて現場に向かうと、野次馬の中、怒り狂ったように遂人を殴りつけているあの男を見つけた。
 いつも温恭な男の姿は欠片もなく、理性を失った獣のようであった。青年が仲裁に入っても男はなお殴りかかろうとして、だが、陽子の姿をその視界に認めると両目を瞠らせ、押さえ込まれたまま怒気を引かせて荒い呼吸を整えた。
 殴られていた遂人は大げさに事の重大さを語り、陽子にその場で男の罷免を訴えるが、
「黙れ」
 陽子の一瞥によって、腰を抜かしたようにふらふらとその場にへたりこんだ。
 遂人を見下ろしながら、温和を表したような男をこれほどまでに怒らす何をしでかしたのだろうと、陽子は疑問に思った。
 陽子が遂人から視線を外す頃になると、男と男を押さえつける青年を残し、その場にいた全ての者は伏礼しており、その顔を確認することもできなくなっていた。禁じた、しかし未だ初勅が官に浸透していないことにも苛立ちを覚えつつ、視線を男へと動かした。
 男は体を押さえつけていた青年に、丁寧に請うていた。
「すまない、もう取り乱しはしないから手を離してくれ」
 その場にいた皆の関心が向けられている中、陽子の顔を見た男は悲しげに笑い、乱れた髪もそのままに伏礼し、何も語ることなく、深く深く頭を垂れた。
 何も話そうとしない、弁解すら行なわない男に向け、十日ほどの謹慎を命じた後、男は青年に伴われてその場を立ち去ることとなった。
 言葉を口にしなかった男の背中を見つめながら、陽子は唇を強く噛み締めた。
 それは、何も言わない男への苛立ちでもあり、そして、何も伝えてもらえない悲しさでもあった。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 確かそのときの話は、陽子を呼び止めた青年に聞いたのだ。
 青年話すべきかどうか、迷う素振りを見せながらも、やはり真っ直ぐに陽子を見て語った。
「あの方は、助言されただけなのです。そのやり方は過去に失敗していることが多いから、別の方法がよいだろうと」
 それは治水に関するものであったのだという。長く図書館府という場所に携わっていたせいか、男は慶の古今の政に関して精通していた。だからこそ、府庫で遂人に対し異を唱えたのだろう。異を唱えたといっても、男のことだ。おそらくは普段のまま、穏やかにそっと助言した程度のものであったに違いない。
 男は過去の失敗の事実が記されたものがあると伝え、別の方法が安全で、より効率よくできるのだと告げて資料の場所を指し示した。しかし、恥をかかされたとでも感じたのか、遂人は他の官の前で男を罵倒した。
「地官でもない、位だけの能無しが口出しするななど、それはひどい言いようでした」
 しかし、ありとあらゆる罵倒を浴びせられながら、それでも男は怒らなかったのだという。
 遂人がそれを口にするまでは。
「全くの事実無根であると、私共は存じているのですが――」
 躊躇する青年へ、陽子は話してほしいと先を促す。
 青年は言葉を選びながら、遂人は、陽子が男の部屋を何度も訪れているのを目にして知っていたこと。そして、陽子の寵愛を受けて甘い蜜を吸おうとしているのだろうと嘲笑し、それ以降、遂人の口から出される卑猥な言葉の連続に、とうとう男は怒り殴ってしまったのだと、語った。
「――申し訳ございません。誰も、そんなことを信じてなどいないのです。本当に、申し訳ございません」
 己が罪ではないというのに、青年は椅子に座ったまま頭を下げた。
 何度も謝罪の言葉を口にして、頭を深く垂れる青年を見ながら、陽子は何故か納得する思いだった。
 しかし、同時に何も語らずに去った男のことを考えると悲しくてやりきれない。
 そんな気持ちを抱えたまま執務室に戻ろうとする陽子へ、見計らっていたように書簡を渡された。それは男の辞職を申し出るものだと、青年は言う。
「馬鹿者」
 男に向かって放った言葉なのか、自身に対して言った言葉なのかわからない。渡された辞職願いに目を通すことなく握り潰し、陽子は男の部屋へ向かった。
 大きな音を響かせた足音に気付かないはずはないのだが、扉は閉ざされたままで、その向こう側にある男の気配は身動きする様子がない。陽子は閉じられたままの扉の前で立ちつくし、男の名を呼んだ後で苦しげに言葉を吐き出した。
「私を馬鹿にするな」
 女王である私を侮辱した官の職は奪わず、私の誇りを守ろうとしたお前を辞めさせろというのか。お前はそんな決断を私にさせるのか。そんな王に誰がついてくるのだ、と告げる声は自らの耳にも苦しげに響き、駄々を捏ねる子供のようだと感じながらも、それでもかまわないと、心から思った。
 考えてみればこの部屋を訪れるときは、いつでも王という権威を脱ぎ捨てており、そうして、ただの人として意味のない話を語ったり、国政に携わる一人として男の話を聞いたり、そのどちらであっても、何かしら満たされた気持ちで部屋を出た。
 この男が陽子に与えてくれたものは、真っ直ぐで豊かなものであったはずだ。子供のようだと、仕方ない王だと思われようとかまうことはない。
 扉の向こうから返事はなく、ただ沈黙を守り通す男に、陽子はそれ以上言い募ることができず、
「辞職の申し出は、受けつけない」
 と、だけ言って、扉の前に書簡を置いていった。

 後日、執務後に布に包まれた小さなそれを差し出したのは浩瀚だった。
「とある官より、預かってきたものです」
 広げた淡い紅色の布の中にあったものは、陽子の手に不思議と馴染む、男の部屋に用意されていた持ち慣れた茶杯で、それ以外には何もなかった。
 陽子の手の中にしっくりと収まる茶器に、浩瀚はよい品物ですね、と僅かに感嘆のこもった声で伝えるが、陽子はやりきれなくて瞼を閉じた。
「主上?」
「……――浩瀚。今日はもう、下がれ」
 陽子の言葉の後、二拍ばかり間を置いて一礼し、浩瀚は執務室を後にした。
 男が何故、これを自分に渡したのかはわからない。もう、部屋に来るな。関わりあいたくないという意思表示なのだろうか。もう、前のように会うことはできないけれど、これは貴女の傍に、という意味なのだろうか。
 男から真意を語られることはなく、そこではじめて陽子は、暖かいあの部屋で男と共に過ごす時間を失ったのだと理解した。
 いつまでも続くと思っていた、柔らかく、温かな時の流れ――それを男と共有する、あの部屋で過ごす日々の全て。それを。

 ――私は、失ってしまったのだ。

 茶杯を握りしめたまま、ただ時間は過ぎ、どうして、何故、と陽子は何度も何度も心の中で繰り返した。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 謹慎が明けた後に、何事もなかったかのように仕事に戻った男は、以前と変らずあの優しげな笑顔を浮かべ、暖かく周りを包みながら丁寧に仕事をこなしていた。部下の面倒もよく見たが、相変わらず出世欲というものはないようで、図書館府で不満なく働き続けた。
 あの日以降、男は廊下ですれ違えば丁寧に頭を下げ挨拶こそすれ、昔のように陽子に語りかけることはない。陽子を含め、多くの人物が和州の乱の後始末や人事異動に追われる怒涛の毎日の中で、けれど、あの男だけは変わらず図書館府に居続けた。