美しき人生



 今一度、下界で生きようと思います、と告げて男は辞職を願い出た。
 多くの書物を扱ってきた、すらりと長い指が戸惑いを見せることはなかった。


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 数多の官の中でも、その男と出会ったときのことを、陽子は不思議と鮮明に覚えている。
 先王が即位される前から図書府で働かせていただいております、と深々と伏礼した男は、高位でありながらも出世とは縁のない、府庫の管理を行なう人物であった。
 玉座に就いたばかりで政はおろか、慶や世界について何も知らないも同然の、陽子の苦悩を察した太保の配慮だったのだろう。わからないことを調べたいときは、府庫にいる人物に尋ねられるといいでしょう、と言われたのだ。
 長く図書府で働く本の虫で知識だけは多い人物、と太保に称された男は、微笑むと目尻の皺がいっそう深くなる。
 礼を欠かない程度に視線を真っ直ぐ向け、浮かべる微笑が男の人柄を表しているようで、陽子の口元にも自然と笑みが浮かんだ。
 官としての時間は長いが突出した才があるわけでもなく、そして欲もなかったが、丁寧にきっちりと仕事をする男であった。
 父親のような、祖父のような存在として見ていたかもしれないと、陽子は今になって思う。
 まだ玉座に就いたばかりの頃、海客であること、そして女であることから周囲は陽子を受け入れる姿勢を見せなかった。あからさまに懐達と呟く者、海客であるがゆえの無知を隠れて哂う者や玉座に対し媚び諂う者ばかりの中で、男はそのどちらでもなかった。

 それは玉座に就いて半月ばかりの頃だったと思う。
「私の部屋で、休まれませんか」
 と、男は言った。
 慣れない執務に疲れ、路亭の影で休んでいたときのことだった。突然話しかけてきた官と思しき男を、陽子は知らなかった。
 すると男は陽子の戸惑いを感じたのか、苦笑を滲ませた優しい顔で名乗り、
「ここは寒いですから茶でも入れましょう」
 と、やはり優しい口調で言った。
 突然の提案を素直に受け入れた理由は、今でもよくわからない。ただ、王である自分に害を加えるはずもない、と頭の片隅で冷たい思考が過ぎったのは覚えている。
「さして大した場所ではありませんが」
 と、男に案内されたのは二歩程度の、王宮内ではこぢんまりとした部屋であった。置かれている机などの家具は、陽子の執務室を思わせた。勿論、その価値からすれば月と鼈なのだが、それを陽子が知るはずもない。
 書籍の山を見ながら、おそらく、と陽子は思った。案内されたこの部屋は男の執務室のようなものなのだと。
「どうぞ、お掛け下さい」
 男に招かれるがままに円卓の椅子に腰掛け、見渡した部屋は男が言ったように質素で、だから余計に陽子の視線は書卓の両隣に積み上げられた書籍へと向けられた。
「それが、私の仕事なのです」
 どこからか茶器を用意してきた男はそう言うと、茶で満たされた器を陽子の前に差し出した。
「この部屋では主に書籍の修繕作業を行なっています」
 眼前に置かれた茶杯に手を伸ばすと、それは陽子の手に妙に馴染んで不思議な感じがした。
「図書府で管理している書籍も、年を取ります。だから、綴じている糸や紐が切れてしまったり、紙が虫に食われてしまったりするのです」
 男は、陽子の具体的にはどんなことをするのかという問いにも、丁寧に答えた。声をかけてきたときのように、穏やかで優しい声と笑顔で一つ一つを語ってくれ、景麒が呼びに来る頃には、陽子は髄分と打ち解けて話せるようになっていた。
 景麒の陽子を呼ぶ「主上」という声に、男は、長々と引き止めてしまい、大変申し訳ありませんでした、と丁寧に頭を下げた。
 何故か言葉に詰まり、躊躇いがちに陽子は男に問うた。
「また、来てもいいだろうか」
「――主上のお時間が、許す限り」
 いつでもおいで下さい、と男は笑った。
 それは約束事として取り決めたものではなかったが、陽子は仕事が空いたときや男が休憩の時間を見計らって部屋に訪れた。七日連続で行く日もあれば一ヶ月顔を見ないこともあった。そんな中で、男が太保の言っていた人物であることがわかり、執務の中で理解できないことや知らずわからないことについて、教えを請うこともあった。
 陽子がふらりと部屋を訪れると男は大抵部屋におり、お茶を入れてくれる。そして、陽子に差し出される茶杯は決まって同じもので、いつだったかそのことについて尋ねると、
「それは即位式の後、主上のために勝手に用意したものなのです」
 と、いつになく照れた様子で男は笑った。
 陽子のために誂えられた茶杯に描かれているのは、桃に蝙蝠の図案であった。
 桃と蝙蝠は不老長寿と幸福を表す図案であるのだと説明され、陽子はいつも気にしていなかった茶杯をまじまじと見つめてしまう。
 何気なく使っていたものに込められた願いがある。願いであると同時に、それは祈りでもあり、また託されたものでもあったのだと、今の陽子にならわかる。
 そのときはただ、「陽子」という存在を認めてもらえたようで胸が熱くなったのを覚えている。
「茶杯は知人の職人に頼み、主上のためにと誂えたものなのです。主上のために、と申し上げましたが、本当に使っていただけるとは思っていませんでした。しかし、いつか……そんな日が来るかもしれないという、私の自己満足だったのですが――こんな形で主上の手の中に収まっています」
 と、男は言った。本の修繕作業の中で見る、夢のようなものだったのですが、と続けて微笑んだ。
 陽子は細く長い男の指が、繊細に書籍を扱い修繕していく中で、ふと顔を上げ、使われることはないだろう茶杯を想い微笑む男を思い浮かべた。それは、美しい物に思えて。
「いつか」
 と、口をついて出た。
 顔を上げた陽子は、男の背後に積み上げられている書籍を見つめた。男の顔を見ながらであれば、照れくさくてとてもではないが口にはできなかった。
「いつか、私にも教えてくれないか」
 私にもきっと、大切にしたい書籍ができると思うから。その日のために。
 そう言った陽子に、男は、嬉しそうに諾と応じた。

 しかし、男からそれを教わる日は、終ぞ来なかったのである。