微笑みの人生



 季節が巡る度に、過ぎていく日々のふとした瞬間に、私はあの方を思い出していた。
 戸惑うような、けれど、その奥底が決して揺るぐことのなかった、あの鮮やかな双眸を。


 人の気配に気付き、私は目を開けた。いつの間にか、眠っていたらしい。
 動かした視線の先に飛び込んでくる赤。
 長らく見ることのなかったその色に、思わず目を瞠る。突然の訪問。けれど、実にらしい登場であった。
「お久しゅうございます」
「……うん。本当に、久し振りだ」
「このような場所に――勿論、台輔のお許しを得て来られたのでしょうな?」
「それは、大丈夫。ちゃんと景麒にも話してきた」
「そうですか。それは重畳にございます」
 幾年経とうとも変わらぬ様子に、笑みが浮かぶのを止められない。

「ずっと、ここで?」
 窓の外を御覧になるその目には、庭の木々が映っているのだろうか。
「はい。実は、亡くなった妻の故郷でして」
「そうか」
 男は亡くなった妻の故郷で朝廷での知識を活かし、私塾を開いていた。
 先日、その私塾出身者が数名、官として朝廷に上がってきた。似ても似つかぬ容貌であるのに、不思議と彼らはよく似ていた。
 ただ真っ直ぐに王である陽子を見つめる眼差し。温もりを伴った、穏やかな。
 しかし、それは男の知るところのないものであったが。
「貴方から見て、どう思う?」
 何を、と陽子は尋ねなかった。だから男も、何が、とは返さなかった。
「――そうですね。永い時間を王宮で過ごした私にとって、下界は新鮮で驚きの連続でした。戸惑うことがなかったといえば嘘になります。しかし、それら全ては心地良いものでした」
「そうか」
「はい。それに私は――今の慶が、とても好きです」
「……そうか」
「はい。それを、お伝えできないことが心残りでしたゆえ、私は今、とても満たされています」
 彼の方へと視線を向けるが、霞んだ視界、加えて逆光ということもあり、その表情を読み取ることはできない。
 けれど、鮮やかな赤と碧に、ひどく心揺さぶられた。
「主上」
 あぁ、目の前におられる方を呼ぶのも本当に久しい。
 朝廷を辞してより、その呼称を口にしたことがなかった。口に――言葉という形にしてしまえば、溢れてしまいそうで。
「主上」
 一度目は、微かに声が震えてしまった。ごく僅かであったから、気付かれなかったかもしれない。しかし、私の知るよりもずっと大きくなられたこの方は、お気付きになられたのかもしれない。
 一瞬の葛藤から、二度目は力を込めて口にした。
「私は、貴方様にお会いできたことに、心から感謝しております」
 風に揺れる赤の髪。
 赤――それが、生命の色、太陽の色であると思い出したのは、つい先日のこと。
 その名に相応しく、男の仕えた主は太陽のように光を放つ。
 温かく、けれど力強いその光に心地良さを覚え、男の唇は自然と弧を描く。
「私に、誇れる祖国を与えてくださったこと、本当に嬉しく思っているのです。ですから、貴方様の治世が豊かに続いていくことを、心から……心から祈り、申し上げます」

「――ありがとう」

「本当に、ありがとう」

 あのとき、私は確かに貝になってしまいたいと強く願い望んだ。目を閉じ、耳を塞ぎ、口を固く結んで、願いの叶わぬ現実に絶望しかけていた、あの頃の私。
 過去の私に伝えたい。
 貝になどならなくてよかったと思える未来が、確かに存在するのだと。
 明けぬ夜などないのだと、そして、鮮やかな暁が慶国を照らすのだと。
 光は、そこに届くのだと。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 主上、とほんの微かに震えた声に、何故かひどく揺さ振られた。
 ゆらりと、視界が歪みそうになり、目元にぐっと力を込めた。

 ――初めてだったんだ。

 何がだ?

 ――官の死を看取ったのは。そして、一官吏にこの国を、王としての自分のありようを問うたのは。
 ――本当はずっと、側にいてほしかった。彼の目で、私という王を見続けてほしかったんだ。

 言っちまえばよかったのに。

 ――……うん。もう一度、朝廷に上がらなくても、飛仙でいいからと言いそうになった。でも、言えなかった。彼が、逝くことを決めていて――それは、もう揺るがないものなのだとわかってしまった。引き止めることはできないと、確信してしまったんだ。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 陽子に趣味と呼べるものはなかったが、近頃では、日々感じたことを文字にすることを覚えていた。
 それは、筆でこちらの文字を書くことが難しいと相談した際に、隣国にいる青年の勧められたのだ。曰く、自分の考えたことや感じたことであれば上達するのではないか、と。
 誰に見られるものでもないものだからこそ、下手だってかまわない。自分しか見ることのないものなのだから、と。
 そうして陽子は、あちらで使っていた教科書ほどの大きさに紙をある程度切っておき、執務が終わった後に、その日にあったことを記していた。
 内容は、その日の天気に始まり、食事や着物に執務の内容、ときには愚痴を書くこともあった。元々は文字の練習のために始めたものだったが、書くことで自分の考えや気持ちが整理されるような気がして、陽子のそれは半ば習慣化していた。
 書き上げた紙はそのまま木箱にしまい、執務の合間や休日にそれを冊子の形にまとめ、自らの書庫にしまっていた。またそれとは別に、浩瀚や遠甫に紹介された書物の感想などをまとめてもいた。
 そして、作業はあの部屋で行なっていた。

「主上、茶をお飲みになりますか?」
「あぁ、そうだな」
「いかが致しましょう。茉莉花茶と新芽で作られた白茶――白毫銀針がございますが」
「白毫銀針?」
 陽子は聞いたことのない名前に手を止め、顔を上げた。
「はい。ほのかな甘みが特徴の、茶葉を器に入れたままで飲む白茶にございます」
 青年の説明を聞いた後、思うところがあった陽子は、白茶を頼むと口にした。
「では、ご用意いたします」
 面を上げた青年の細面は涼しげで、しかし、時間と技術を惜しみなく陽子へと捧げ、言葉の端々に敬意を隠さぬその忠義。
「ありがとう」
 掛けた言葉に青年は上擦った声で恐縮の意を述べて頭を垂れ、常の静かな所作で部屋を辞した。
 作業を中断し、窓から見える空は高く美しい。今年一番の見事な秋晴れの空に見受けられた。
 柔らかな光と、心地よい風。そして、適度な疲労感。休憩するには十分過ぎるほどの環境だ。
「……本当に、気のつく」
 呟く言葉の可笑しさに、陽子の口元が歪む。
 真に気のつく様とは、相手にあれこれ尋ねずとも先んじて目を配り、気を行き渡らせるもの。茶が必要かを聞くのではなく、必要としていることを「利く」のだ。
 そういうものであることを、この部屋で陽子は初めて知った。
 もっとも、いくら陽子よりも随分年上であるからといって、官吏としてまだ経験の浅い青年にそれを求めるのも酷な話なのかもしれない。
 勿論、青年はよくやっていてくれている。臣とはかくあるべきと讃えるべき働きぶりだ。
 けれど、時折、臣に崇められる背の重さに眉を寄せてしまう。

 ――いい天気でございますね。
 燃える紅葉と高空を背に茶を淹れる静かな所作。
 ――このお茶は初めてお出しいたしますが、いかがですか? 私は、口に残る僅かばかりの甘みを好んでおりまして。
 陽子のためだけに用意された茶杯を差し出す手の繊細さ、それでも官らしく筆の胼胝ができた指。
 茶を請うたことは結局一度もなかった。そう思ったときには既に目の前に出されていた。
 景麒に考えが伝わらず苛立ったとき、政に戸惑い疲れたとき、山のような執務から開放された僅かな休憩時間に。
 傍らにあって語り、話し上手ではない陽子に多くを語らせることもなく、それでも質問をすると丁寧な答えを示してくれた。ただ静かに茶を差し出した、あの暖かな手。

 ――思われるようにされるのが宜しいかと。己の心を偽り、ことをなしたとて、いずれどこかで破綻いたしましょう。

 抱える迷いも苦悩も黙って推し量り、それと気付かぬように固まる陽子の心を解きほぐした柔らかな声、眼差し。
 この国を支える者の一人として、見えぬ重みを共に背負っていたと感じることができた臣だった。

 ――主上。

 あれから、どれほどの時間が経ったのだろう。数ヶ月が数十年にも思える。しかし、どちらでも同じことだった。
 陽子の名を気安く呼ぶ者を、友を、信頼すべき臣を得ようとも、あの手が用意した茶を口にすることはもう決してない。
「――……」
 あの手で守りたかったものは何だったのか。終ぞ問うことはできなかった。
 内に鋼のごとき折れることのない信念を抱いた男に、問いかける機会はもう二度とない。


 それでも、見上げる空は高く美しい。
 美しい、それだけだ。





御身に私の財産を捧げます・・・カルセオラリア