蝶の接吻
ねぇ、知ってる?
その日だけは、宿木の下で、口付けを交わすことが許されるの。
ねぇ、あなた。
その日、宿木の下で口付けを交わした二人は、幸せになれるの。
冬至も過ぎたある日、陽子に招かれ件の小さな家を訪れた楽俊が目撃したのは、
「……陽子?」
「いらっしゃい、楽俊!」
にこりと嬉しそうに笑った陽子が、巨大な雪の球と格闘しているところであった。
陽子は直径が腰元まであるような雪球を、ごろごろと転がしてさらに大きくしているが、楽俊には何を目的とした行動なのか全くわからない。
「何を、しているんだ?」
大きく目を瞠ったままの楽俊が尋ねると、
「雪だるまを作っているんだ!」
と、またしても無邪気な顔で、嬉しそうに言ってきた。
「雪だるま……?」
「こちらにはないのかな? あちらの雪遊びの一つで、雪で作った像なんだ」
「へぇ」
そう言いながらも大きくなった雪球はそのままに、陽子は、もう一つ何やら雪球を作って転がし始める。
これは頭になるんだ、と転がしていることから、おそらく先程のものが胴になるのだろう。
少し屈んで雪球を転がしている陽子を見つめながら、楽俊は再び尋ねた。
「で、どうしてそれ――雪だるまを作ってるんだ?」
「今日はクリスマスだ、ってことを思い出したから」
「くりすます?」
「うん。こちらにはないから、せめて雪だるまでも作ろうと思って」
「……うん?」
陽子は笑っているが、楽俊には何のことだかさっぱりわからない。
そうこう話している間にも、陽子は大きくなっていた二つ目の雪球の大きさと形を片方と比べながら整え始めており、雪球の表面を撫でるようにしている手の指先は、赤くなっている。
楽俊は背を向けている陽子へと、足を踏み出した。
陽子は雪球を真剣に見つめており、楽俊が近付いていることには気付いていないようだった。
その姿は幼子を見るようで微笑ましく、ふ、と楽俊は笑みを零す。
「陽子」
声をかけると、陽子は首だけを回して振り返る。
思った以上に近い場所にいた楽俊に、陽子は目を僅かに見開いた。その驚いた顔に、楽俊はまた小さく笑った。
童女のようだ、と思うがそれは口にしない。陽子が拗ねてしまえば、会話が続かなくなり、また機嫌を戻すのに後々大変だからだ。
「……楽俊?」
そして楽俊は、声に応えるように、一つ彼女に質問をする。
「くりすます、とは何なんだ?」
楽俊の質問に陽子は視線を虚空に移し、しばらく考え込んだ後、再び視線を楽俊へと戻した。
「神様の生まれた、お祝いの日だよ」
少し困ったような表情を陽子が浮かべているのも、仕方ないことだろう。
敬虔なキリスト教徒ではない、特に無宗教な日本人にとってクリスマスは既に、恋愛イベントや家族サービスの日となっており、本来の意味は置き去りにされてしまっているに等しい。
「神が生まれた日……」
「うん。前に、あちらの世界はこちら以上の国があることや、国ごとに信じる神様が――宗教が異なることを話しただろう? クリスマスというのは私のいた国ではない、別の国の神様が生まれた日なんだ」
「自分達の信じる神が生まれてきたわけじゃないのに、祝うのか?」
楽俊のもっともな問いかけに、陽子は苦笑した。
「うん、そうなんだ。私がいた国では、文化や行事、風習の一つとして扱われていて……ようはお祭り騒ぎする日なんだよ」
そう言って、陽子は、サンタクロースが空飛ぶソリに乗って子供達に贈り物を持ってくることや恋人達にとっては逢引をする絶好の口実になっていること、その日のお祭り騒ぎがどのようなものなのかなどを、簡単に説明する。
あちらの行事を思い出していたことに罪悪感を覚えないわけではなかったが、懐かしく思い出すことは決して悪いことや罪ではないのだと、以前、楽俊に言ってもらえたこと。また、具体的な例を挙げる度に楽俊が、へぇ、すごいな、そうなのか、それで、と相槌を打ってくれたお蔭か、陽子はあまり気負わずに話すことができた。
「勿論、その神様を信じている人達はきちんとお祝いしているけれど、こっちも国が違えば風習も違うだろう? それと同じだと思ってくれると助かる」
端的な説明であったが、楽俊は首を傾げながらも頷いた。
「兎に角、皆が楽しく過ごす日なんだな」
楽俊がそう言うと、
「うん。そういう日なんだ」
と、合わせたようにして二人は笑った。
一緒に笑いながら陽子は、大きな雪球に手をかけた。
が、かなりの大きさにしてしまったために、雪球はびくともしない。加えて言うならば、陽子は普段、賓満をつけていない。
「……あれ?」
失敗したかな、と僅かな後悔と共に首を傾げると、不意に雪球が軽くなった。
「え、わ!」
そのまま浮かび上がった雪球は、すんなりともう一方の雪球の上に乗ってしまった。
陽子が隣にいた楽俊を見ると、彼は手についた雪を払い落としながら笑っている。
「これでいいんだろう?」
二人の前には、背の高さが陽子の頭まであるような雪だるま。楽俊が頭の部分を持ち上げたのだった。
「うん!」
陽子が嬉しそうに頷くと、楽俊も同じように笑った。
「こんなものをお前一人で持ち上げようなんて、無茶だな。少し考えればわかるだろ?」
「……できると思ったんだけどな」
「いくらなんでも無理だろう」
お前は女なのだからと苦笑する楽俊に、陽子は少し口を尖らせる。しかし、すぐに雪だるまへと向き直り、雪だるまの顔に細工を始めた。
「後は目と口と手!」
その様子はとても無邪気で楽しそうなのだが、赤くなったその手が楽俊は気になって仕方がない。赤い指先は彼女が触れる雪のように冷たくなっているだろうことを、楽俊は知っている。
風邪を引いてほしくはないが、楽しそうな陽子の邪魔もしたくない。
せっかく陽子がのびのびと笑っているのに、それを壊したらもったいない。
相反する葛藤の中、陽子に気付かれぬように楽俊は小さく溜め息をついた。
◆ ◆ ◆ ◆
ここにクリスマスを知っている者は誰もいない。
勿論、サンタクロースもトナカイも、ツリーやきらきら輝くオーナメント、柊のリースも、見当たらない。
モミの木などは探せばあるのかもしれないが、今のところ陽子は見ていなかった。
しかし、今日という日がクリスマスであることに気づいてしまうと、何だか嬉しくなってしまった。
幼い頃、家族と共に過ごした夕食のことやサンタクロースが見たくて夜更かしをした昔のこと、朝起きて枕元にプレゼントがあるのを見つけた瞬間を、思い出してしまって。
陽子は他の誰もいない小さな家までを駆けると、積もった雪を使って雪だるまを作ろう、と思い立ったのだった。
子供っぽいとは自分でもわかっているけれど、この日に恋人と会えるならば、はしゃいでしまうのは仕方ないことだと思うのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「陽子」
雪だるまの顔を木の実や落ちていた枝で作り、腕に見立てた木の枝を二本つければできあがりというところまできたとき、それらしい枝はないものかと辺りを見回す陽子を楽俊が呼ぶ。
「何?」
「お前にも、何か贈り物をしようか」
「……え?」
楽俊の突然の提案に、陽子は握っていた枝を落とすほど驚いた。
「恋人同士でも、贈り物をするんだろう?」
「え、あ、うん。それは、そうなんだけど……」
「何が欲しい?」
「いいよ!」
音が鳴るほどに首を横に動かして遠慮する陽子に、楽俊はほんの僅かに眉を顰める。
「遠慮しなくていいんだ」
陽子はきっと、楽俊が本当にできないことを乞うたりしない。陽子はそういう人間なのだと、楽俊は知っている。
「でも……」
陽子は黙り込み、二人の間に少しばかり気まずい空気が流れる。
彼女はいつもそうなのだ。こちらがじれったくなるほどに、我が儘など言わない。我が儘に何かを望むような少女であれば、楽俊もこんなに気を揉んだりはしない。
加えて言うならば、陽子の言う、ごく稀な我が儘など楽俊にとっては正当な――最初から陽子が望んで許されていると思うものばかりだった。
しばらくすると、陽子は俯いていた顔をぱっと上げた。
「……あ」
そんな陽子に楽俊は笑みを浮かべる。
「何だ? 欲しいものでも思い出したか?」
「え、あ、……いや、別に」
「隠すな」
「え?」
「隠しているんだろう?」
「や、あの、でも――」
やっと何か欲しいものでもあったのかと、そう思って聞いてみたのに、何故だか陽子は煮え切らない。
――彼女の欲しがるものならば、きっと何でも用意するのに。
楽俊が陽子に贈り物をしたいのだ。常日頃からあまり我が儘を言わない陽子に、何か彼女の欲しいものを贈って喜んでほしいのである。
そうやって愛しい女を喜ばせた、と満足したいのだ。陽子が喜び笑うことは、楽俊にとっても喜ばしく嬉しいことなのだから。
だから楽俊は首を横に振る陽子に詰め寄り、最終手段を取ることにした。
「……!」
陽子は声も出ぬほど驚き、ただただ目を瞠るばかりだった。
本当にそれは突然のことで、楽俊に腕を掴まれたかと思った次の瞬間には、その腕と胸の中にいた。
そして、楽俊は陽子をしっかと抱き寄せながら、その耳元で、
「陽子、何が欲しい?」
と、耳に息をかけるように囁いたのである。
みるみるうちに自分の体温と心拍数が上がるのを、陽子は自覚した。
――これは、ずるい。
――あまりにもずるい。
めったに出さない艶めいた声と吐息が耳元をくすぐる感触に、腰が抜けてしまいそうになる。そして、そんな楽俊に勝てた例は今までに一度もなく、陽子は楽俊に抵抗することなど、できなくなってしまった。
「呆れないで……聞いてほしい」
そう前置きをしてから、屈み込んだ楽俊の耳にそっと小さな声で囁き返したのだ。
楽俊は陽子の言葉を聞いて、固まった。
思わず彼女の顔を覗き込もうとしたが、自分の肩口に顔を埋められてしまいわからない。
しかし、耳まで赤くなっているのは、寒さだけのせいではあるまい。
「陽子」
「――……」
返事は返ってこないが、楽俊の胸元を握る手にきゅ、と力が入るのがわかる。
あまりの嬉しさに、楽俊は顔を綻ばせて陽子の額に唇を寄せた。
嬉しい。
緩む口元を止めることができない。
普段は我が儘なんかほとんど言わないくせに、ここぞというところで可愛らしいことを言ってくれる。
「陽子。お前がそう言うなら、『それ』がある場所まで行こう」
「え?」
「心当たりがあるんだ。『それ』があるところにな」
「え、今から?」
日は既に傾き始めていたが、楽俊としてはどうしても、その願いを叶えてやりたかった
「嫌か?」
「……う」
「それが、陽子の願いなんだろう?」
楽俊が笑みを浮かべて言うと、陽子はまた顔を伏せてしまった。
しかし。
「…………うん」
小さな声で、そして顔は俯いてはいたけれども、はっきりとした返事に、楽俊は陽子の体を離し、その手を取った。
今から行けば、日が暮れきる前までには行って帰ってこれる。
先日偶然見つけたそれは、下界よりも緩やかな気候のここならば、まだあるはずだ。
――大丈夫。
胸中で、自分自身に言い聞かせるように呟く。
きっと、誰よりも愛しい少女は喜んでくれる。
「この雪だからな。ちょっくら急ぐぞ、陽子」
早足で進み始めた楽俊に、陽子は握られた手を離すまいと、ほんの僅かに力を込めた。
手に手を取り、輝く笑顔で二人は奥へと進んでいく。
そんな二人の後姿を、作りかけの雪だるまだけが見つめていた。
『あちらでの言い伝え、みたいなものなんだけど、クリスマスにヤドリギの下で――』
『――だから、ヤドリギのあるところ、楽俊は知ってる?』