夢見る唇
「…………っ!」
最悪の気分で目が覚めた。
どんな夢を見ていたかは全く覚えていない。しかし、きっと悪夢だろうと陽子は強く思う。
いい夢だったならば、こんな冷たい汗をかいてはいない。
――今は何時頃なのだろう。
窓から差し込んでくる光はまだ仄明るい程度で、夜は明けていたが起床するには早すぎる時間帯だった。
窓越しに空を見やれば色濃い藍色で、やはり本来目覚めるべき時間よりは大分早い。
普段なら執務のために体力を温存しようと眠る努力をするのだが、今再び眠ってしまえば悪夢を見てしまいそうな予感がした。
ならばと、陽子は体の向きを変えた。こんなに早くからやるべきことは特にない。かといって、起きることもできない。
今は背中に回された形になっている腕に拘束されているからだ。逃れようとするならば、意外に気配に敏い彼のことだ。すぐに目覚めてしまうだろう。
――楽俊。
眠っている楽俊の顔はまるで精巧な彫刻のようだった。「眠る男」と銘打ち、そのまま調度品として飾ったならば、人形であると信じる者もいるかもしれない。常人であるならば、眠り気が緩んでいるはずのそのときにこそ感情が表面に現れないのだと、知っている者はほとんどいないだろう。そして、そんな楽俊を呼吸の音が感じられるほどの距離で見つめることができるのは、自分一人だけだという確信が陽子にはあった。
何故なら、基本的に楽俊は人前で眠らない。大学の課題や試験などでひどく疲労し、庭園の路亭でまどろむ姿を遠目に見る者はいたが、近付く途中で必ず目を開けてしまう。そして、照れたような気まずそうな微笑を浮かべるのだ。
楽俊の寝ている姿を見ることはあっても、その寝顔を見たことがない。戦友である大僕の何気ない言葉であったが、陽子にとっては印象的でずっと覚えていた。
それまでは何とも思っていなかったのだが、指摘されればやはり気になるもので、本人に気付かれないよう見ていると、確かに大僕の言葉は正しかった。
ある状況を除いたら、ではあるが。
今現在の状態――陽子と楽俊が共に眠るときに、陽子にだけその寝顔を見せてくれる。
誰も知らない。能面の如くに全てが消えてしまった顔で眠る楽俊を。
誰にも見せていないであろう楽俊の寝顔を知っている。そう思うとどこかくすぐったく、冷たく思える寝顔でも胸がじんわりと温かくなる。
幸せだ、と思う。
穏やかで心温かな時間を、大切な人と共有できることが。そして、それを許されているということが。
けれど、と陽子は思う。
こんなにも満たされている自分とは異なり楽俊は静かに眠っている。多少身じろぐこともあったが大きな変化は見られない。
対照的な二人に、自分ばかりが幸せだと思っているようで、陽子は何だか悔しかった。
――寝言の一つでも、言ってくれればいいのに。
恋人なら寝言で名前の一つも呼んで欲しい。その想いが伝わったのか、今まで動くことのなかった楽俊の唇が微かに動いた。
声が零れるほどではなかったが、その唇の動きを読んだ陽子は破顔した。
常ならば温かな目と共に呼ばれる、己の名だった。
「楽俊」
お返しとでもいうように、息を潜め、舌の上で転がすように呼んだ陽子の声は、砂糖菓子のように甘かった。
◆ ◆ ◆ ◆
「楽俊」
陽子に名を呼ばれると、他の誰とも違う感覚が湧き上がるのを楽俊は感じる。
今までの人生で多種多様の人間と出会い、名前を呼ばれてきたが、自分でも理解できない感情に支配されるなど初めてだった。
だが、それは決して不快ではなく、寧ろ心地よく耳から入り込み全身に染み渡っていく。
その音は大きいわけでもなく、しっとりと柔らかで、すぐに消えてしまうものであるのに確実に身の内に刻まれている。実に不思議な声だ。
時折、聞こえなかったふりをして、名前を繰り返させるのは、その声で誰よりも多く名前を呼ばれたいからかもしれず、だからというわけではないが、今の状況に少々不満を感じている。
――気を遣わなくていいのにな。
強い視線に意識が浮上したのは、陽子が自分の寝顔を黙って眺めているせいだと楽俊はすぐに気付いた。声を出さないのは起こさないための配慮だろうが、こう真っ直ぐで強い視線を向けられると素直に寝ていてやりたくても目が覚めてしまう。
何が面白いのか飽くことなく楽しそうに見続けているのが、目を閉じていてもわかる。
――さて、どうしたものか。
寝顔を見るだけで幸せな気分に浸ってくれているというのは、とても嬉しいことであるし、このまま寝たふりを貫き通してやりたいが、どうにも居心地が悪い。
原因はおそらく、陽子が喋らないからだ。
陽子は楽俊に向かって、ずっと話しかけていることはそう多くはない。それは、沈黙すらも共有できるから、繋がっていることを感じられるからだと思う。
話題が尽きれば無理に話そうとはしないし、こちらが黙ってしまっても話題を強いることない。
ただ時折、ほんの僅かに甘えを帯びた声で名前を呼ぶときがある。
少しばかり困ったように、「楽俊。ねぇ楽俊」と。
じんわりと染み入るかのような声が心地よく、ついつい無言で通してしまいたくなることもある。
――変な気分だ。
二人でいるのに妙な気遣いをせず、その声で存分に呼べばいい。
名前を呼べばすぐにでも起きてやるのに、眠りの邪魔をしないよう努めている陽子は絶対に声を出さないだろう。
ならば、切欠を与えてやればいい。
――陽子。
楽俊は読み取りやすいように、できるだけゆっくりとした唇の動きだけでその名を呼んだ。
すると息遣いで陽子が微笑んだのが伝わってきた。
そして、本当に微かな吐息に紛れて。
「楽俊」
呼ばれた名前は、蜜のように甘かった。