夜の河
愛されていることを知っている。
許されていることも知っている。
それでも、悪夢は追ってくる。
ずぶずぶと音を立てて肺腑を埋め尽くし、夜は水底の泥のように心と体に纏わりつく。
月明かりを残し部屋の明かりを消すと、おやすみと言って陽子は衾褥に潜り込んだ。やがて、その呼吸が規則正しく穏やかになると、途端に楽俊の思考は鈍くなる。
僅かな月の光に照らされた陽子の横顔を眺めながら、遠い眠気を待ちつつ、ただ陽子を見つめる。そんな己の魂から不意に現れる空洞へ、するりと夜は入り込む。
日の光ある昼間はごく普通に見える周囲の風景が、夜になると急に精彩を欠いてしまう。昼は鮮やかだった庭園の緑も、急に萎れて灰の塊へ変わったかのように見えてしまう。
そんなものを感じる能力はないというのに、空気がどこか泥臭く感じられ、腕一本動かすことすら億劫になる。
時折感じてしまうそのときを、楽俊は夜の底と名付けていた。それは陽子に会う以前からあった感覚で、自分が作り出していることを楽俊は漠然と理解していた。
陽子の若干高い体温に触れながら、未来へ思いを馳せることもある。
しかし、そんな思いさえ夜の底では保っていられない。音も空気も風景も思考も、流れのない池底の泥のように溶けて、ぐずぐずと崩れいってしまう。それは全て自らの虚ろな部分に詰め込まれていくのだ。
――想いも魂も、泥の中で溺れてしまう。
だから陽子が眠るとその体を腕に抱いて、月の光にぼんやりと浮かび上がる庭園を眺めるのが慶国における楽俊の習慣になりつつあった。陽子の穏やかな呼吸と、自分よりも高い体温を感じることが、泥の中から僅かに息をする方法だった。
内も外も泥まみれになって瞼を閉じる。泥はゆっくり肺腑へ侵入し、やがて楽俊を飲み込んで、体と心を夜の底に沈めていく。
陽子の温もりと、伝わる鼓動と寝息に縋り、楽俊は意識の落ちる眠りを待った。
不意に瞼の向こう側に光を感じた。
ゆっくりと目を開けると、闇に埋もれていた室内が白く浮かび上がり始める。楽俊は伏せていた顔を上げ、窓の外を見つめた。
――あぁ、朝が来る。
灰の塊のようだった緑が本来の美しさを取り戻す。漂う空気も清浄で、辺りが朝の光に照らされ満ちていく。どこからか鳥の声も聞こえてきた。空には僅かな雲しか浮かんでおらず、おそらく今日も晴れるのだろう。
眠りについていたことに今さらながらに気付き、楽俊は深く息を吐いた。張りつめていたものがするりと体外へ出ていき、朝の光に溶けていく。
視線を下ろすと、陽子はまだよく寝ていた。僅かばかり浮かんだ眉間の皺に、何か嫌な夢を――執務に終われる夢でも見ているのだろうか、と起こさない程度にその頭を撫でる。
数回繰り返すと、すっと皺は取れて表情も柔らかくなった。
それに安堵した楽俊は、起きたときに喉が渇いているだろう陽子のために水を汲んでこようと、眠る少女を起こさぬように音を抑えて牀から抜け出す。
夜の残骸が朝の光に流される部屋から、楽俊はゆっくりと足を踏み出した。
◆ ◆ ◆ ◆
泥の中へ溺れるように夜の底に落ちていく。
楽俊と夜を越えるとき、陽子はいつもぎりぎりまで眠らない。睡魔が瞼を撫でて押し下げ、頭の中に霧をかけてられても何とか耐えて、そして、とうとう気を失うように眠る。
そうしなければ、眠るのは怖かった。
浅い眠りは、あの過酷な旅の夢をもたらすことが多かった。冷たい視線、愚かな自分。言いようもない不安と焦燥。突然与えられた、楽俊の温かな手、優しい眼差し。忘れられない全てがひどく鮮明に蘇る。
雁の街中を歩いている途中、楽俊に呼びかけようと振り返る。
振り返った先に、彼はいなかった。
楽俊がいたはずの場所が、どろりと泥沼に変わる。ぐずぐずと泡を立てながらゆっくり渦を巻く黒色のそれは、妙に粘っこく、そして泥臭かった。呆然と見つめていると、足元が、近くを歩いていた人達が、店などの建物が、全て泥に灰と化し沼に飲み込まれていく。空も濁った灰色で、視界に入る辺り一面が泥の海だ。泥はどんどん嵩を増し、あっという間に陽子の体を飲み込んだ。
足も手も泥がからみつきひどく重く、もはや動かすこともできない。粘つく泥に首まで沈み、息もつけず喘ぎながらそれでも辺りを見回す。
――楽俊、楽俊。どこにいるの?
泥の中で足が滑ると、頭まで一気に沈んでしまう。その刹那、泥沼の中心に探す彼の姿が浮かんで見えた。
背に大きな傷を受け、血塗れで伏したその姿。
その代わり果てた楽俊の姿に沈みながら悲鳴をあげた。口からも鼻からも泥が入ってくるが、それでも悲鳴は止まらない。体の中の全てが泥だけで満たされていく。
もがいてもどうやっても抜けられず、足掻けば足掻くほど深みへ沈むばかりの底なし沼だ。沈むばかりでどこへも辿り着けない。
泥をかき、頼る縁を求めて右腕を必死で伸ばしていると、その手が不意に硬いものに掴まれた。
と、次の瞬間、体が泥の中から引き上げられた。眩しい光が視界を染める。ごぼごぼと濁った水を吐き出しながら、瞼を無理やり押し開いた。
覗き込むようにして、楽俊が笑っている。
腕を掴む感触は硬く冷たい指であるのに、そこにいたのは傷一つない楽俊だった。雁の王宮で始めて見たあの姿で、未だ半分泥に沈んでいた陽子の体を両手で支え、引き抜くように抱え上げた。緑の草原に下ろされた陽子に向かい何かを話しかけているが、耳にも泥が入ったらしく、その声が聞こえない。
楽俊の後ろに広がるのは鮮やかに青い空。楽俊の人柄を表すかのような、眩いばかりのその美しさ。
――楽俊。
必死に口を開くが、出てくるのは泥水ばかり。
――楽俊。楽俊。楽俊!
ねぇ、楽俊は怒ってない? 恨んでない?
本来なら負うはずのなかった命を左右するほどの大きな傷。私の我が侭で巻き込んでしまったこと。私が気付いていないかもしれない、楽俊から奪ってしまったもの。
楽俊は、私の手を握り返してくれたけれど、すごく怖いんだ。
恨まれているかもしれないと思うのは怖い。でも本当は、楽俊がいなくなってしまうことの方がずっと怖いんだ。
私を置いてどこかに行ってしまうなんて、楽俊がいなくなってしまうなんてことを考えただけで、怖くて怖くて仕方がない。情けないけど、それが私の本心なんだ。
お願いだから側にいて。離れないで。私を離さないでいて。
溢れる涙も懇願も泥に塗れている。楽俊の声も相変わらず聞こえない。
それでも彼は笑っていた。沈みかけた陽子の体を掬い上げ、何かを言葉にしながら笑っている。
扉の閉まる小さな音で陽子は目を覚ました。うっすら目を開くと、隣にあったはずの姿がなくなっていた。
明けきらない朝の光が窓から差し込み、室内は白くぼんやりとした光に浮かび上がっている。
徐々に明るさを増していく部屋の中でぼんやりと天井を眺めながら、先程まで見ていた夢を思い出す。
――あれが、私の弱さなのだろうか。
誰にともなく呟いて、陽子は寝返りを打った。朝の手はまだ、僅かに届いたばかりだ。楽俊が戻ってくるまでもう一眠りしようか。
夢見たものは私の弱さで、不安は尽きないけれど、でも、私は強くなって乗り越えていかなければならない。
それだけで許されるとは思っていないけれど、だからといって泥まみれで泣いていたって何も変わらない。
何も変わらないことを、すでに知っている。
辿り着く先は遠く、道はこれからも泥だらけだろう。
けれど、躓いたときは、あの優しい腕が自分を引き上げ支えてくれるから。
それだけはきっと、夢の中と同じように。